無頼の極北としての田中英光
日本の文学史に「無頼派」と呼ばれる作家たちがいる。
個人的には坂口安吾を筆頭に挙げたいが一般的には太宰治、坂口安吾、織田作之助を狭義の「無頼派」とするのが通例なのだろう。
範囲を広げると石川淳、田中英光、檀一雄の名前を含めるのが妥当なところか。
しかし研究者でもないイチ読者の私による文学史的なレッテル貼りに意味があるとは思えない。
そもそも太宰治と坂口安吾の共通点を見い出すのは難しい。愛読者も重ならないと思う。
それどころか、太宰派か安吾派か問われることの方が多いだろう。
坂口安吾派の私は現在、田中英光に就いて考えている。
田中が太宰の弟子であることに異論はないのであろうが、私によく分からないのは田中に於ける太宰への傾倒の理路である。
悲しき最期に至る生の軌跡も私には理解不能である。理解不能ではあるが胸が張り裂けそうなやりきれなさが胸中を占めるのも事実なのだ。
田中英光は過剰な体力に恵まれていた。過剰さを恵まれたと言うのは妥当ではないかもしれない。
しかし、小説家としては過剰でもアスリートとしては「恵まれた」と言えるのだろう。
ボート選手としてオリンピックに出場するほどだったのだから。六尺の身長は当時としては巨軀と言ってよいだろう。
酒に溺れるようになりながら安吾さへまったく敵わない酒豪であった。原稿料はあっという間に飲み尽くしてしまう。酒だけでは酔うことができずに致死量以上のアドルムとヒロポンの錠剤を摂取する。嵩む酒代を節約する為にだ。
安吾は錠剤ではなくヒロポンを注射で摂取して入院することになるのだが。
田中が太宰へ傾倒して文学を志す決意をしたとき田中の親が太宰宅に抗議にきたらしい。文学になどに引き込むなと。
結果論で言えば親御さんの見込みが当たっていたわけだ。いや、見当違いとも言えるか。
トラブルを起こし続けて田中英光は遺族に著作を残し、太宰治の墓前で自らの命を裁つ。
1949年11月3日没。享年36歳。