アリョーシャのいる国で

坂口安吾は小林秀雄との対談でアリョーシャの偉大さについて触れている。

「風と光と二十の私と」「白痴」などの作品でアリョーシャ的な偉大さに憧憬をいだいている思いが伝わってくる。
行雲流水など純粋無垢な作為のない偉大さを探し求めることが安吾を支えていた。
無頼派と呼ばれる安吾だが濁世において常に無垢な姿を追い求めていた。
しかし、安吾の洞察力と筆力では到達できないほどの大きすぎる対象であった。
そうであっても、安吾が追求した目標の魅力を私は感じ取れたし、多くの読者は安吾の無垢への希求がどこからやってきたのかをつきとめたい思いに囚われる。

実際に安吾の文章は読みにくいし真意がくみ取れないことが意外に多い。

勢いはあるし、一読して納得するものの多層的な読みを可能にする不可避な曖昧さがある。

語り得ぬものに沈黙せず足掻くことが安吾の真骨頂である。