初期衝動で八十年間戦えますか?

八十年間継続するならもはや初期衝動ではない。単なる語義矛盾だろう。と回答するのが多数派だと思います。問いを発した私自身も同じ質問をされたらそう返すと思う。では何故この疑問を立てたのか。

先ず私が念頭に置いているのは、音楽、特にロックやパンクに覚醒した時の状態を指す言葉としての初期衝動です。宇宙が誕生した時のビッグバンのイメージが近いかもしれません。いや本当にビッグバンは近いのだろうか?具体的に考えれば、中二病に見事に嵌まって悶々とする夏休み。偶然聴いた「キャピタリストカジュアリティーズ」に脳みそも身体も拉致されて意味不明に絶叫する。叫ぶという誰でも可能な行為に脳みそが発火する。鬱屈していた得体のしれない衝動を発散する方法を発見した瞬間だ。訳も分からずやるべきことが腑に落ちる。仲間を募り見様見真似に爆音を噴射。その時点で発見は自分の叫びを通して「発明」に変わる。これを初期衝動の典型と極私的に定義したくなります。

「キャピタリストカジュアリティーズ」でなくてもパンクでなくても、音楽でなくてもよいのですが条件は継続。それだけ。中二の夏休みだけで急激に解熱作用で覚めてしまうこともあるでしょう。食っていけるかどうかではなく、被雇用者でも随伴者がいても向かい合い方が変わらなければ問題ではない。だが先達曰く、食い扶持となると初期衝動だけでは継続はできない。それはその通りです。実感としての衝動は短期間で消えて安定期がやってきますし不本意な道程も経験するでしょう。そんな時に「初期衝動は忘れない」と自分自身と新たに再契約を結ぶ。実は初期衝動は事後的に「発見」することなのです。少しだけ感傷的になります。継続が条件になるのは途中下車をしてしまえば再乗車は困難であり、初期衝動も何も関係なくなってしまうからです。まるで「人生」のようだと言いたくなる。しかし糊口を凌ぐこととは別の「道のり」であることも条件に付け加えたくなります。「仕事」に一意専心することで極める境地にも「尊敬の念」を懐きます。それが初期衝動と同じ道行であれば更によい。そうではありますが「二兎を追う者は一兎をも得ず」という定説を否定したい欲動が極私的にあるのです。

「趣味」と言ってしまうと違和感がのこります。反抗期がないままに成熟していく人がいるらしいので中二病も過去の遺物と化すのかもしれない。承認欲求を過剰な自己見積りが原因で拗らせることで中二病が発症するのならSNS世代には中二病も反抗期も消滅傾向にあっても不思議ではないように思います。

半世紀を超えた年齢に呆然としながら己の「初期衝動」を見いだそうと必死に記憶を辿ります。永遠の中二病という人生の桎梏と反抗期が不在の滑らかな人生。欲動が抑圧されながらも制御され回帰して文化に昇華される。そこには致命的な損傷を薄氷の差でパンクという形態に結実させることで制御します。一方で抑圧されることのない欲動は散逸することで致命傷を回避する。欲動は昇華ではなく微細な承認に拠って暴発を免れます。
ロックもパンクも対抗文化として展開されてきた歴史があります。根本には激情が潜在していました。
人間の文化という大掛かりな観念には欲動を制御する機能があります。その反面、人間には文化に対する不満が伏流しています。文化は人間の野蛮さを鎮める役割があります。野蛮性は薄い層となり人々の心を覆っています。至るところで文化が希釈されています。