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私が子供の頃 ほしかった「家族」


2020年、人生で はじめての体験をした。

これは 夏のある日、北海道でおきた話。
彼の実家に遊びにいったときのこと。


緊張の概念をもたないはずの私が緊張していた。

到着が夜遅くだったにもかかわらず
彼のご両親は あたたかく迎えてくれた。


「団欒」が存在した


まず驚いたこと。

「団欒」が存在した。

「俺、このメニューが好きだったな〜」
『あ〜〜〜確かに!あとさ、あれもうまかったよね』
「今はもう胃もたれするから無理だろうな〜」
『あれ、すごい時間かかるのよ〜』

みんなそれぞれ お気に入りメニューがあった。


幼少期ハマっていたロボット王国の話、スマブラを極めた結果 弟さんは クラスで四天王と呼ばれていた話、お父さんが神童と呼ばれていた話、ひいおばちゃんが 凄腕な話

ご飯を食べながら、それはそれは盛り上がった。


「このタコはお裾分けでいただいたの」
『この酒は、かなりレアで、なかなか手に入らんぞ』
「やっぱビーフンうめえな」


食べ終わった後は 親子で熱唱。

ギターで弾き語りする お父さんと
気持ちよさそうに歌う 彼の弟と
食器を洗いながらそれを見守るお母さん。

彼は ソファでうとうと。



家族がこんなにも長く
同じときを共有していることは
私にとって新鮮だった。


私は「団欒」というものが 何なのか よくわからなかった。


私にとって、晩ご飯は 苦い時間だった。


苦い 晩ご飯


父、母、姉、私
最初は家族4人で一緒に ご飯を食べていた。
大皿をつついて食べていたはず。

もしかしたらこの頃は、
「団欒」をしていたのかもしれないけど 覚えていない。



小学校低学年くらいの時、大皿から 小皿になった。
母は 少しでも接触を減らしたかったらしい。

誰も 話をしなくてテレビの音だけが静かに響いていた。

私は その無言に耐えられなくて
必死に話題を探しては、どうでもいい話をしつづけた。

私の「お喋り」と「引き出し」は ここで培われた、気がする。



そのうち、一緒に食べなくなった。
たしか父が転職して、仕事から帰ってくるのが
遅くなったから、みたいなのもあった気がする。

1人分の冷たいご飯が置かれているテーブルに目をやっては
なんだか 見てはいけないものを見ている気がしていた。

帰宅後、父は1人でご飯を食べていた。
私は たまに 食事中の 父の向かいに座り おかず泥棒をした。
お腹いっぱいのくせに。



テーブルに置かれるご飯の品目や量は
だんだんと 少なくなっていった。気がする。
(私が成長しただけかもしれない)



そして、いつからか、
父の分のご飯は用意されなくなった。

帰宅後、父が何を食べていたのか あまり覚えていない。

父は、調理師だから 別に困りはしなかったのかもしれない。



家族で笑って過ごす は愚か、
みんなで揃ってたべることは夢の話だった。


リビングに滞在する時間は、誰もが短くしたがっていた。


「団欒」というのが何を指すのか
いまいち 理解しないまま大人になった。


だから、


お気に入りのメニューで盛り上がる兄弟が、

食後にリビングで弾き語りをするお父さんが、

食器を洗いながら家族を見守るお母さんが、


眩しかった。



私はあの日、「団欒」を知った。



次に驚いたこと。


「兄を尊敬する弟」が存在した


漫画や アニメの話じゃなかったのかと驚いた。

彼(ひーくん)の弟が こんな話をしていたのだ。

俺が就活で迷って迷ってきめた結論を報告したときにさ

ひーくん『本当にそれでいいのか?』ってきいてきて

俺が「うん」って答えたら、『じゃぁおめでとう』って言ったの。

給料がいいとか、有名だとかじゃなくて
俺の意思が一番にあるところ、

ひーくんやっぱすげぇなって思ったよ。尊敬してる。


それを言われた本人は 覚えていなかったみたいだけど

私はこれを聞いてすごいと思った。


このすごいには、二段階あって

①そもそも 兄弟に尊敬の気持ちをもっているのがすごい
②それを本人に伝えられているのも すごい


というのも、

私は姉に「あっちいって」と言われた記憶しかない。


「あっちいって!まり」


アナと雪の女王の「雪だるま作ろう」をはじめて聞いた時、
これは 私のための歌だと本気で思った。

「ゆり!

雪だるまつくろう〜
ドアをあけて〜
一緒に遊ぼう〜
どうして、出てこないの?

前は仲良くしてたのに
なぜ会えないの?

雪だるまつくろう
大きな雪だるま〜」


『あっちいって!まり』


「わかったよ〜〜〜」


そんな環境だったから、
姉を尊敬しているか?と聞かれて
即答できる自信はない。

(すまんな お姉、これから見つけるよ)


仮に今即答できる要素があったら、


あ、あった。


自分のやりたいを貫いて 必ず実現してきたこと。

この高校に行きたい
→ 推薦で受かった ふーん

この大学に行きたい
→ 推薦で受かった 入試のプレッシャー知らずめ

韓国に留学行きたい
→ 本当に行った まじか

この会社に就職したい
→ 超有名大企業だし まぁ無理だろな〜
  え、内定出たん???


実現はもちろんだけど
そもそも 何年も貫けるのが、すごい。


いやでも、だとしても
姉に「尊敬している」なんて言える気がしない。



どうやったら、彼と弟のような関係性が築けるのだろうか。
教えてGoogle。


2020年12月19日追記

今日、彼のお母さんから 電話で 彼が幼かった頃の話を聞いた。

今 素晴らしい関係を築いているように見える兄弟にも
たくさんの喧嘩があって、葛藤があって、寂しさがあった。

「一緒にいたくない」「部屋を分けてほしい」

目に見えているものが全てじゃない。

案外、姉と私、彼と弟は 同じなのかもしれない。


そして、最後。
これは私にとって、それはもう大きな衝撃だった。



「あいしてる」が存在した


いや、そりゃ漫画とかアニメとかで きいたことはあったよ。


でも 私は直接 誰かが誰かに言っているのは
生まれてこのかた、一度も聞いたことがなかった。

この世の中で実際に使う言葉ではないのだと思っていた。



でも、違った。



彼の家族の中には 確かに存在していた。



彼のお父さんが 紡いだ「あいしてる」に
顔がほころぶ お母さん。

「俺らがいない時にやってくれ〜〜〜」
と笑いながら 突っ込む弟。


その様子をみて
これは たぶん日常なんだろうな、と思った。


安心と絶望


彼と 付き合ってすぐの頃、
彼が一度 「あいしてる」と伝えてくれたことがあった。

その定義も実感も わからなかった私はすぐさま
「あいしてる、ってなに?」と彼に聞いた。


彼は困った顔をしていた。


そりゃそうだ。


気づいた時には 彼の日常のなかに「あいしてる」は存在していて

定義だの意味だの考える必要もないくらい
当たり前の概念だったのだから。


「あいしてる」のなかで育った彼とは、そもそもスタート地点が違った。
先をいく彼と一緒にいれることに安心を覚えると共に
どうやったって追いつかない、ある種 絶望のような感覚もうまれた。



私が子供の頃 ほしかった家族



彼の家族と過ごした2日間で 思ったこと、

それは

彼の家族は、
私が子供の頃 ほしかった家族そのものだったということ。



そりゃあ、もちろん彼の家族にも 
私にはわからない 苦労や試練がたくさんあったと思う。
(彼は小中9年間 不登校だったわけだし...)


でも、眩しくてたまらなかった。
私にとっては 喉から手が出るほど うらやましかった。


2020年12月19日 追記

今日、彼のお母さんから 電話で昔の話を聞いた。

幼稚園の時のこと、小学校1年生の時のこと、2年生の時のこと、3年生の時のこと、4年生の時のこと、5年生の時のこと、6年生の時のこと、中学生の時のこと、受験期のときのこと、高校生1年生の時のこと、高校2年生の時のこと、高校3年生のときのこと、、、

担任の先生の名前、友達の名前(フルネーム)、何があったか、彼がどんなことを言ったていたか、どんな表情だったか、お母さんは何を想ってどんな行動をとったのか

耳に届く話は、すごく鮮明だった。
その時のことを 全く知らないはずの私の頭の中まで鮮やかになった。 


一番印象的だったのは、

不登校になった彼が少しでも
「行きたい」と思った時に居場所があるよう、
彼が学校に行っていない間もずっと PTAの学級代表をしていた

という話。


それぞれの家族には、それぞれの悩みがあって
それは 外からは見えないことの方が多い。

「たくさんの悩みや葛藤があったからこその 今がある」
という点で考えると、彼の家族も私の家族も変わりないのかもしれない。

そう考えると、もしかしたら私の家族も 誰かにとっての「子供の頃 ほしかった家族」なのかもしれない。



15歳 秋、決めたこと。


とはいえ 今、私は

父のことも好き。
母のことも好き。
姉のことも好き。


だけど、
家族という共同体という点では
うちの家族は 随分と 欠けていたんだと思う。


別に誰が悪いとも思っていないし、
この環境で育ったことに今、一切の悔いはない。

この環境だったからこそ得られたことがたくさんある。
人生もう一度やるとしても 同じ道を選びたいと心から思う。



でも、

父は「親の失敗」と表現していたし、
母も「結婚観に影響が出ませんように」なんて言ってた。



だから私は

父も母も 道なかばで諦めてしまった
「家族をつくる」に挑戦すると決めた。


父と母が離婚し、「知人」同士になった 15歳の秋から
人生の目標として 私は 胸に刻み続けてきた。


24歳 夏、出逢った希望


とはいえ「家族をつくる」に挑戦したくても、
ゴールのイメージなんて、全くなかった。

仮に ゴールイメージを持てたとしても
それが夢物語か実現可能なものなのか判別ものつかない。


そんな中で、この夏であった家族は
心から「こうなりたい」と思える家族だった。


目指したい家族が幻想ではなく
実在することを この目で確認できたのは、

私にとって救いだった。
瞬く間に 希望となった。


何をすればそれができるのか、実現のために何が必要なのか、
とんと検討はつかないけれど

彼がいれば 大丈夫な気がしている。


彼に出逢えたことに感謝して。


ps. いつだって隣の芝は青い

そんな彼が書いた note、
「10年前の日下秀之は「日下秀之奨学金」に何を思うか」
ぜひ読んでみて。

彼にも彼の悩みがあって、いつだって隣の芝は青い。
10年前の彼は、きっと 私のこと 苦手だったんだろうな。

それと、

\ 日下秀之奨学金 /

ほんとは、募集終了しているんだけど、
このnoteを読んで応募を決めてくれた人は
2020年12月18日(金) 23:59まで 〆切を延長してくれるって!

って、今日やん。

社会人でも、お金に困ってなくても、好奇心だけでもOK。
よければ応募してね。



pps. 母と父と姉の自慢

当時は大変だったけれど、
今は 私と母、私と父、私と姉 とてもいい関係を築いている。

このままだと 勘違いされかねないし、それは嫌なので
母と父と姉の自慢をして このnoteを終わろうと思う。


いま母に感謝していること

・旭山動物園の飼育員を夢見る小学生の私に毎週、バス賃を握らせてくれたこと

・図書館司書に興味があるという話をした翌日、資料を印刷して机の上に置いてくれたこと

・高校の3年間、毎日朝5時に起きてお弁当を作り続けてくれたこと

・キャリアで迷って電話したときに「じゃあ、どんな選択肢になっても驚かないように覚悟しておくね」と言ってくれたこと

・たまに手紙の返事をくれること。最近こないな。笑  でも別に来なくてもきにならんよ、安心して



いま父に感謝していること

・休みの日に、「◯◯行こう」と声をかけると一度も、本当に一度も嫌な顔をすることなく必ず連れて行ってくれたこと

・悪いことをした私に「まりが悪いんじゃなくて、この環境が悪い」と言ってくれたこと

・私が日本一周すると伝えた時に「ここがおすすめだよ」と教えてくれたこと

・離婚が決まってから引っ越しまでの2週間「ただいま」と母に声をかけたこと

・最近、私の発信に対して感想のLINEをくれること。こんな考え方をする人なんやってはじめて知ったよ。


いま姉に感謝していること

・同じ経験をした唯一無二の存在であること

・姉のやることを真似したいだけだったけれど、結果 習字をならうきっかけをくれたこと

・断られても めげない、強靭なメンタルを鍛えてくれたこと

・留学する、ここに就職する、全て有言実行してみせてくれること

・「私と付き合ってるだけで無理」と過去の全彼氏を否定してきたのに、今は「三人でご飯行こうよ」って誘ってくれること。いや、でもこれは今でも恐怖。笑

それぞれ、好きだし、悔いはないよ。

家族が解散してから10年だったけど
わたしたち、みんな頑張ったよね。


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