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ヨルシカ「晴る」雑考②表現の指摘


はじめに

雑考①では、ヨルシカ「晴る」の音韻構造を分析し、音象徴への意識を指摘した。特にサビでは母音のa音e音、子音のs音h音が使われ、晴れやかな印象が振り分けられていた。
読まなくてもこの記事に差し支えはないが、未読の方は読むことをおすすめする。
ヨルシカ「晴る」雑考①音韻の指摘|疎影 (note.com)

本記事の扱い

本記事は、ヨルシカ「晴る」を、表現のファクターを設け、分析することを目的としている。
また、詳細な読解を目指すものではなく、読解への準備段階と捉えていただきたい。

表現上の工夫

表現の工夫を述べる上で、適宜歌の時系列に沿って歌詞を引用して、箇条書きの形式で指摘を施していくこととする。

タイトル

話題になっている〈「晴る」をドイツ語訳すると…〉という風説に私見を呈しておこう。作詞者n-buna本人は、現在非公開となっている1/18のラジオで、あくまで「副産物」と語っていた。後出しジャンケンのようで気が引けるが、この風説を知った時からの私の意見もそれに近く、この事実のみを取り立てて褒め称えるのに若干の疑問が残る。これは要素を抽出して残った結晶のようなもので、光を受けた反射のみが大衆の目を奪うのが歯がゆい。
そもそも、「晴る」がわざわざ古語の活用になっているという事実を切り捨て、内在する意味のみを現像する「翻訳」という方法はあまりにもナンセンスではないか!そこだけ切り取るのなんてもったいない!!

とはいえこの風説に対する、自分の世界観を守りつつタイアップ先に寄り添う曲を作り、あろうことか副産物であんなものを生み出すのには恐れ入る、という意見には大別して一致している。

一番Aメロ

貴方は風のように
目を閉じては夕暮れ
何を思っているんだろうか

Uta-Net ヨルシカ「晴る」より引用

・「貴方は風のように」
述語の省略がなされている。後の「目を閉じて」に掛かる可能性もあるが、意味のつながりに若干の齟齬が生じるため一旦は述語の省略として考える。「風」というテーマはこの曲に貫通して登場するため、どこに掛かるのか、「貴方」と「風」の関係など、読解にはこの一文の徹底的な検討が必要であろう。

・目と天候の並列化
この曲を通して、目と天候は重ね合わせて描かれている。ここでは、「目を閉じ」る行為と「夕暮れ」が並列化されている。この「ては」は条件を示すものと捉えられ、「閉じ」ることと夕暮れの薄暗さに関係を持たせていることがわかる。

・「晴」字義と「夕暮れ」の関係性
大漢和辞典「晴」の立項を引くと、第一義として「夜に入って雨が上がる」と挙げられている。「晴」は「夝」の異字体であり、もとは「精」「暒」らとともに今の「晴れる」の意味で使われていた。説文解字の「夝」の項には「雨而夜除星見也。从夕生聲。」〈雨夜に除きて、星見ゆるなり。夕に从(したが)ひて生を声とす。〉(私訳)とある。後半部分から読み取れるように、もとは「夕」と「生」の合字であり、したがって「夕暮れ」との関連性は高いと考えられる。
筆者は一聴して現代一般的に使われる〈青い空に太陽が出る昼の晴れ〉を想定していたが、一番には青や昼の太陽を示唆するものが少なく〈月や星が瞬く夜の晴れ〉としての解釈の余地が発生した。

目蓋を開いていた
貴方の目はビイドロ
少しだけ晴るの匂いがした

前掲 

・「開いていた」の文法的解釈
〈(ずっと前から)開いていた(のを今発見した)〉存続の意味でとるのか、〈(以前は)開いていた(が今は違う)〉過去の意味でとるのか。留意して読み進めたい。

・「貴方の目はビイドロ」目と天候の並列
先述した目と天候の並列関係から考えるに、「ビイドロ」は目だけでなく天候のことでもある。
「ビードロ」の意義を考えよう。由来はポルトガル語の「vidro」で、ガラスの意味である。日本国語大辞典を引くと、「(「すきとおるように美しい」というところから)美人、美女の形容。」とする意味もある。ただし、用例を見てみると洒落本(江戸時代の戯作小説で、吉原など遊女に関する内容が多い)一つしか引かれておらず、やや卑俗な表現であったと言える。そのためここでは「美人、美女」の意味は捨象してよく、「すきとおるように美しい」ものとして引っ張り出されたという過程に着目するべきだ。
「すきとおるように美しい」という意義はこの曲のテーマと考えられる「晴れ」に通づるものがある。つまり、この詩の語り手は「すきとおるように美しい」空と同列に、「目蓋を開いている/貴方の目」を「すきとおるように美しい」と考えているということになる。語り手の「貴方」への態度が伺える一節である。
また、「ビイドロ」のもつ青のイメージは見逃せない。青空にもなぞらえた表現なのであろうか。

・「晴る」と「春」の区別
ここでは「晴るの匂い」と表記されている。音だけ聞けば「春の匂い」と解すのが自然である。ただし、タイトルともなっている「晴る」に文法的な注釈を施すと、現代では使われていないラ行下二段動詞「晴る」の終止形となっており、古語とはいえ活用に適さない終止形を持ち出すということは、掛け言葉的な運用をしているのだろう。読解において「晴る」と「春」の区別は緊密に行うべきであろう。

一番サビ

晴れに晴れ、花よ咲け
咲いて晴るのせい
降り止めば雨でさえ
貴方を飾る晴る

前掲

・「咲」の字義
大漢和辞典「咲」の事項を引くと、「わらふ。笑の古字。」とある。元来「咲」という字は「笑う」という字義を持っており、「花が咲く」等の意味で使うのは日本語くらいだ。さて、n-bunaがこの事を理解しているのは明白である。「あの夏に咲け」には「君が触れたら、/た、た、ただの花さえ笑って宙に咲け」という一節がある。これは、「咲く」と「笑う」の意味が入り交じった表現であり、この意味混合は曲の全体にまたがる。作詞者n-bunaは、「咲」の字義を明確に意識していることが伺えるだろう。
「咲く」を「笑う」の字義を混ぜて解釈するならば、ここでも空模様と「貴方」を並列化していることになる。ここでは「晴れ」と「笑う」が結び付けられていることは言うまでもない。あとの解釈は後の論考に譲ろう。

胸を打つ音よ凪げ
僕ら晴る風
あの雲も越えてゆけ
遠くまだ遠くまで

前掲

・「胸を打つ」は古語的な利用か?
日本国語大辞典「胸を打つ」を引くと、「悲しみや嘆きや無念さから自分の胸をたたく。自分の胸をたたいて嘆き悲しむ気持を表現する。」とある。「胸を打つ音」が止まれと願う文脈であるから、「胸を打つ」を感動するという意味でとるのは誤りであろう。よって、ここでは古語的な用法で解釈するべきである。

・「凪げ」と「晴る風」
大漢和辞典を引くと、「凪」は元は「風」と「止」の合字であるとされる。ここから、「風が止む」という意味を持つ漢字であるが、それが転じて「静かになる」という意味も持つ。ここでは「音よ凪げ」から、音よ静まれという意味でとるのが自然である。しかし、すぐ後ろを見ると、「僕ら晴る風」と「凪」とは真反対の描写がある。これは筆者の造語であり、これが本当にあるかは知らないが逆縁語といったところであろうか。蓋しここは矛盾ではなく、「凪げ」までと「僕ら晴る風」とは意味的に全く分けられた表現であり、言葉遊びとしてもたらされたのではないかと考える

二番Aメロ

貴方は晴れ模様に
目を閉じては青色
何が悲しいのだろうか

前掲

・「晴れ模様」
「晴れ模様」という言葉は存在しない。しかし、言葉は常に移り変わるものである。意味が伝わらない、または敬意のかけらの無いようなものでない限りはいちいち目くじらを立てるほどでもないだろう。
これは「雨模様」という言葉から連想された誤用である。「雨模様」について、日本国語大辞典を引くと「雨が降りだしそうなようす。あまもよう。雨催(あまもよい)」とある。近年では現に雨が降っている様子も「雨模様」と表現することが多くなったそうだが、ここでは原義に注目したい。雨を催しそうな時分、それを「雨催」と呼んだわけであり、それをひっくり返せば晴れを催しそうな時分も「晴催」となる。一番との繋がりを論ずるにあたり、最適な架け橋となる単語ではないだろうか。

目蓋を開いている
貴方の目にビイドロ
今少し雨の匂いがした

前掲

・「目蓋を開いている」
後に投稿予定である構造のパートで詳しく述べるが、ここでも触れておくこととする。「開く」は瞬間動詞と分類できる。この瞬間動詞に「ている」が付くと、結果の状態を示す意味を持つ。(補足すると瞬間動詞の対は継続動詞であり、「読んでいる」などは進行中の意味を持つ。)つまり、「目蓋」はいつかに開き、今は「開いている」結果となっている。一番との対比を考えると、一番の「開いていた」は過去の意味でとる方が良い可能性が高まった

・「貴方の目にビイドロ」
先述した「ビイドロ」の再登場である。一番は「目はビイドロ」という表現であった。「目」=「ビイドロ」であったが、二番では「目」≠「ビイドロ」だ。多くの人が触れているように、「ビイドロ」は涙のメタファーである。助詞をひとつ変えるだけで劇的な意味の転化が起こった。

二番サビ

泣きに泣け、空よ泣け
泣いて雨のせい
降り頻る雨でさえ
雲の上では晴る

前掲

・「雲の上では晴る」
いい表現だ。古今和歌集「冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ」清原深養父の歌を思い出す。雪が降っているところに「春」を見出すという構造は、雨が降っているところに「晴る」を見出す構造と似通ったところがある。晴れを願う歌でありながら、雨にも晴れを見出すという姿勢は解釈に活かすべき。

土を打つ音よ鳴れ
僕ら春荒れ
あの海も越えてゆく
遠くまだ遠くまで

・「雲の上」から「土を打つ」視点の移動
先日投稿した拙著「ヨルシカ「晴る」雑考①音韻の指摘」で、一番のサビ前半から後半へのスムーズな移行を指摘した。使用頻度の低かったu音を前半の落としに採用し、後半の始まりもu音で始めることでスムーズな移行を意識していると述べたが、表現の面でもその移行の意識が見られる。
前半を「雲の上」を連想させる情景で終え、後半を「土を打つ」と始めるのだ。これは間違いなく雨を視覚的に表現しているといえる。雲の上から降り注いだ雨が、下っていって土を打つ。二番の荒れた雰囲気を助長するような勢いを感じる。

・「春荒れ」
日本国語大辞典には「春荒れ」の立項があるが、「春嵐に同じ。」と片付けられている。春嵐を日本国語大辞典で引くと、「二月から三月にかけて吹くはげしい風。春疾風(はるはやて)。春荒れ。」とある。このように同義の言葉がいくつかあるわけだが、「春荒れ」が選ばれたのは、間違いなく音韻の意識からに違いない。これに関しては先日投稿した拙著を御覧いただきたい。

Cメロ

通り雨 草を靡かせ
羊雲 あれも春のせい
風のよう 胸に春乗せ
晴るを待つ

前掲

・「通り雨」
二番で述べられてきた雨が、「通り雨」と一言に濃縮される。このBPMの曲で言われると説得力も増すものであるが、この曲の「雨」への態度として解釈の鍵になりそうだ。

・「羊雲」
羊雲は特に季語としては機能しない。主に秋や春によく見られる雲であり、高積雲という名を頂く。高積雲を日本国語大辞典で引くと、「中層の雲。一〇種雲形の一つ。白色の塊が線状、波状に群れをなしたもので、すき間から青空が見え、陰影をもつ。二~七キロメートルの高度に現われる中層雲で、太陽や月の前を通過するとき光冠や彩雲を生ずる。羊の群に見えることから羊雲ともいう。むら雲。積巻雲。」とある。羊雲は「すき間から青空が見え」るものというところが重要で、「通り雨」が晴れへと変化していく様の描写に一役買っているのである。
また、「陰影をもつ」というところも重要で、晴れの情景と雨の情景を併せ持つこの曲の移り変わりにも示唆を投げかけている。

大サビ

晴れに晴れ、空よ裂け
裂いて春のせい
降り止めば雨でさえ
貴方を飾る晴る

前掲

・「咲け」→「裂け」
一番では「咲け」だったものが、同音異義の「裂け」へと転化してる。二番で雨の情景をうたい、雲の描写を書き置き、大サビでそれを「裂け」と一気に晴らす。「花」が「空」へと変わるのを除き、発音こそ一番と大きな違いはないものの、見事に意味の転化を成し遂げているのである。
ただし、この「裂け」は若干意味理解の遅延を伴うことも指摘しておこう。「裂け」の活用から見るに、五段活用の命令形と判断できる。更に続く「裂いて」の活用も同様に五段活用であることからも、他動詞の「裂く」とするのがよいだろう。しかしこれでは、「空よ裂け」という文章は、「空」が何かを「裂け」を命令する意味となる。解釈としては、ここに「雲」を挿入して、〈「空」よ!雲を「裂け」〉とすればいい。ただし問題なのは言い換えて「空を裂け」と言ってしまえば、直接言わずとも雲を裂く光景が無意識に理解されるということにある。似た表現なので紛らわしいが、「空を裂け」では「空」が裂かれる対象になっているが、「空よ裂け」では「空」は雲を裂く主語になっているのである。前者では意味上「雲」を挿入しなくてもすぐに理解できるが、後者では「雲」を挿入しないと理解ができない。このように、「空よ裂け」という表現は若干の意味理解の遅延を伴うのである。

胸を打つ音奏で
僕ら春風
音に聞く晴るの風
さぁこの歌よ凪げ!

前掲

・「胸を打つ」
先にも「胸を打つ」について述べたが、ここでは馴染みのある〈感動する〉の意味でとるのがよいだろう。

・「春風」と「晴る風」
「春風の中に坐するが如し」という言葉がある。春風が花を咲かせるように、成長にとって最適の環境にいることを示す言葉である。厳密に成長と結び付けなくても、「春風」は何かを導き、育む象徴であるといえるだろう。とすれば、「春風」が「花」を育むように、「咲いて晴るのせい」とあるように「晴る風」は「咲」、つまり笑顔を育む存在といえるのではないか。このような「晴る」「春」の意義に関しては後に投稿予定の論考で詳しく述べたい。

・「音に聞く」
「音に聞く高師の浦のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ」祐子内親王家紀伊のこの句は百人一首にも採用されていて、まさに「音に聞く」表現である。日本国語大辞典を引くと、「世評が高い。有名である。」と定義される。その意味でとるのがいい。
さて、ここでは「胸を打つ音」「音に聞く」と別の意味での「音」を重ねて強調している。これは間違いなく「凪げ!」という落とし、そして待ち受けるアカペラパートへの駆け上がりを演出する。「音」を最大限削ったアカペラパート。まさに雲もなく透き通るような歌声を響すために、ここで「音」へのマークが為される。「晴る」への最大限の賛美である。

アカペラパート

晴れに晴れ、花よ咲け
咲いて春のせい
あの雲も超えてゆけ
遠くまだ遠くまで

前掲

・リフレイン
サビ部分のリフレインである。「晴る」が「春」へと変更は見逃せない。

おわりに

表現について、辞書的な意義に立ち返ったり、文法的な観点から留意すべき点を指摘した。表現においても歌詞への工夫はとどまらない。この曲は消費すべきではないのである。
気がつけば6000文字を超えていた。何となく2000文字を超えないようにと心がけているものの、よくもまあ衒学的にペラペラと言葉がつきないものだ。次回はこの曲の構造について述べる予定だ。

参考文献


・歌詞の引用は、Uta-Netより行った。(より公式に近いものがあればご教授願いたい)

・本文中、「日本国語大辞典」とある中國哲學書電子化計劃ものは、全て『日本国語大辞典 第二版』小学館 2000年12月20日~2002年1月20日刊行より引用を行っている。なお閲覧はJapanKnowledge上で行った。
・本文中、「大漢和辞典」とあるものは、全て『大漢和辞典 修訂第二版』大修館書店 1955年初版刊行より引用を行っている。なお閲覧はJapanKnowledge上で行った。

・一番Aメロ「「晴」字義と「夕暮れ」の関係性」にて行った「説文解字」の引用は、「中國哲學書電子化計劃」より「説文解字/巻八/夕部」から行った。
說文解字 : 卷八 : 夕部 - 中國哲學書電子化計劃 (ctext.org)


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