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#離婚

出会い

元妻を初めて見たのは、私が高校生、元妻が小学生でした。もちろんその当時に恋心を抱いていたり、女性として意識したりということはありませんが、強く印象に残ってることがあります。

私は部活以外でスポーツをやっており、ある指導者の下で指導を受けていました。そこの門下生というか、指導を受けていたのが小学5年生の元妻でした。

2人ペアで『手押し車』というトレーニングをする機会がありました。
1人が相方の両足を抱え、もう1人が手で地面を歩くトレーニングです。

当時、華奢な身体をしていた私は、小学5年生の元妻とペアで手押し車をしていました。
元妻は日焼けしないために長袖Tシャツを着ていたのですが、袖を伸ばして長袖Tシャツ越しに私の足首を持っていました。

また休憩時間には自分の手を服のおなかの中に入れて過ごしていました。

普段は礼儀正しいイメージだったので、そのしぐさに『珍しいな』と思っていました。

ふとしたタイミングで元妻の手のひらを見ると血だらけでした。
手押し車で砂利が手のひらに突き刺さり出血していたのです。
にもかかわらず、誰に報告するでもなく、休むこともなく、手押し車を続けていたのです。

袖を伸ばして長袖Tシャツ越しに私の手首を持っていたのは、私の靴下に血が付かないようにするため、手を服のおなかの中に入れていたのは出血しているのを隠すためでした。
私が「〇〇ちゃん大丈夫?」と聞くと、元妻は「監督に言うと怒るし、面倒くさいからこのままでいいです」と笑顔で話していました。

こんな状況でも弱音を吐かない強い子どもだな、と感心したのを覚えています。また、監督のことを面倒くさいと毒を吐くキャラに『個性も強いな』と思っていました。

その後、私も元妻もスポーツを続けていき、私が22歳で元妻が17歳の時に交際をすることになりました。

結婚のきっかけ

元妻は大学に進学しましたが、程なく自分の意志で退学しました。
そして元妻が働く場所を見つけたタイミングで同棲しようということになりました。

同棲をする前に元妻のご両親にご挨拶に行きました。
何度か元妻のご自宅に泊まりに行ったことはありましたが、今回は同棲の許可を得るために時間をとっていただきました。

元妻のお父様から、なぜ同棲したいのか?付き合うだけではだめなのか?将来をどのように考えているのか?など質問がありました。

私が元妻のお父様に「将来は結婚を考えています」と伝えると、お父様は「将来結婚を考えているなら、同棲ではなく結婚すれば?」と言われました。
それに対して私は「確かにそうですね。許していただけるのであれば、このタイミングで結婚させてください」とお伝えし、ご両親から結婚の了承をいただきました。

結婚生活

同棲したてのカップルと変わらない、毎日がデート三昧という結婚生活でした。

当時、私の年収が1,000万円以上あったことや、妻も働いていたこともあり、20代の夫婦がお金に困ることはありませんでした。

仕事が終われば待ち合わせをして、毎日飲み歩いていました。
何年一緒にいても元妻が大好きでしたし、元妻も私だけを愛してくれているという信頼感を与えてくれました。

とても幸せでした。

倦怠期

私は欲深い性格なのかもしれません。年収が1,500万円くらいでとまり、もっと上に行けない自分に苛立ち、精神的に不安定になることがありました。

合わせて、第一子を授かり、元妻は肉体的にも精神的にもつらい時期に入りました。

私の配慮と心の広さが足りなかったと思っています。

ほぼ年子で3人の子どもを授かったのですが、元妻の生活は子どもの世話と私の世話だけの生活になってしまったのです。

私に対する愛情は以前と変わらずあったと思いますが、キャパが追い付かなかったのでしょう。次第に倦怠期のようになっていきました。

私だけが、事情も理解せずに元妻をガールフレンドのように愛していました。

離婚のきっかけ

子どもたちが小学校に上がり、家族の生活リズムができた頃でしょうか。鈍感な私でも気づくことがありました。
結婚して10年以上、私の仕事がどれだけ遅くなっても待っていてくれて、一緒に食事をするか、私が食事が終わるまで同じ机に座り今日の出来事を話してくれた元妻が「一人で食べて」と言うようになりました。

また、元妻は帰宅すると私の膝の上に座り、どこに行ってきたか、何があったかを話すのが習慣でしたが、ある日を境に膝の上に座らなくなりました。

私から膝の上に座るよう促すと、なるべく肌が触れないように浅く座るようになりました。

付き合ってから初めての経験でした。元妻から避けられるということがありませんでしたのでとても混乱しました。

離婚

そのようなことが続き、元妻の行動をすべて疑って見るようになってしまいました。
元妻が車で帰宅した際、車の中で1時間近く電話していること、毎日のように出かけるようになったこと、すべてが「浮気」というキーワードに結びついていきました。

元妻は以前から「あなた(夫)以外の男性が嫌いで興味がない」、「一生あなた(夫)を愛していたい」と何度も聞かされていましたが、もろくも崩れ去っていく気分でした。

いけないこととは思いつつ、元妻の携帯を見ました。お互いにパスワードは知っていたのです。
元妻の持論で「好きな人に見られて困るものはないから、お互いにパスワードを知っていてもよい」という理屈でお互いのパスワードを知っていたのです。

恐る恐るLINEのやり取りを見ると、生々しいやり取りが目に入りました。
彼氏との夜の営みについてのやり取りでした。私は目の前が真っ暗になるのと同時に現実を受け止めることができませんでした。あの一本筋が通った女性が、私だけを愛すと10年以上支えてくれた元妻が、まさか別の男性を愛していたなんて。

元妻はとても愛情深い人でした。故に私のことを心底愛してくれたと思います。どんなことがあっても味方だと支えてくれました。しかし、愛する人が別の人にすり替わったとき、嘘のように私に興味がなくなることに強いショックを受けました。

私は元妻に「LINEを見ました。浮気してるよね?」と問いただしました。元妻は「ごめん。してしまった。」と、細く返事をしました。

私は元妻に「どうするの?」と聞きました。この質問には私の思い上がりと考えの浅さが出ていました。私は『元妻は反省して家に戻る』と思い込んでいたからです。
しかし現実は違っていました。

元妻の答えは「あなた(夫)と別れるしかないね」でした。

私は『そんな答えがあるのか?』と脳天を打ち砕かれるようでした。

もう、後には引き返せず、元妻のご両親に離婚のご報告をしに行くことになりました。
元妻は「私が悪いので自分で説明する」と言い実際にご両親に自分の口から説明していました。

あっという間に離婚まで進んでしまったのです。

子どもたちの支え

「人生で起こるはずがない」と、勝手に思い込んでいたことが現実に起こってしまいました。
また仕事で頑張った先には『家族で〇〇』という夢がいくつもあり、それをモチベーションに頑張ってきましたが、その『家族』がなくなってしまったのです。
私は夜もほとんど眠ることができず『死んでしまいたい』とふさぎ込んでいました。

私たち夫婦は別の部屋で寝ていたのですが、夜中になると、私の部屋のドアがコン、コン、とノックされます。

小学5年生の長女です。

子どもたちは皆等しくかわいいのですが、私と長女は馬が合うようで、ひと際仲が良かったのです。
そんな長女は事情もよくわからないが、パパとママが喧嘩して、パパが苦しい思いしていると察したのかもしれません。

毎晩、私の部屋を訪ねてくれるのです。
そして私の布団に潜り込み「いくなら一緒に行くからね」と言って朝まで一緒にいてくれました。

当初「行く(別居する)なら一緒に行くからね」と理解していたのですが、当時の状況や文脈から「逝くなら一緒に行くからね」という意味だったのかもしれません。

長女は妹二人に自分のお気に入りの文房具を分け与えていました。
私は長女に「あげてしまったら、自分が勉強できないじゃん」と言うと、長女は「もういいの」と笑顔で答えました。
その後も自分の持ち物を妹二人に配っているのを何度か目にしました。

長女は小学5年生にして、父親ともに苦しんでくれたのです。

やり直せないか

その夜、死ぬことではなく、これからどうするかを考えました。
自分のためにも、子どもたちのためにも、元妻には帰ってきてほしいという気持ちが強くなりました。

私は元妻の好きな料理を作り、リビングを綺麗に片づけ、手紙を書いて仕事の帰りを待ちました。
元妻は帰宅すると、そのまま自分の部屋に入ろうとしました。

私は元妻を呼び止めて「ご飯作っておいたよ、良かったら一緒に食べない?」と声を掛けました。

元妻は「お腹すいてないからあまり食べられないけど良い?」と言いながらダイニングのテーブルに向かい合って座りました。

お互いが手を伸ばせば触れることができるほどの大きさの机に向かい合って座り、グラスにスパークリングワインを注ぎながら話し始めました。


好きになってしまったものはしょうがない。すぐに別れられないと思う。でも、もし家庭に戻ることを選択してくれるのなら、僕と子どもたちは気持ちが落ち着くまで待ってます。だから離婚せずにこれからも家族としてやっていきませんか?
あと、ちゃんと話せるかどうかわからなかったので手紙も書きました。今話した内容とほとんど同じだけど読んでみてください。


元妻は私の手紙を読み終えると、大事そうに自分の手帳にしまいました。
そして「彼氏と何年付き合うかわからない。でも例え明日彼氏と別れるとしても、家族とのこの先何十年の時間より、彼氏との一日をとりたい」という返事が返ってきました。

愛情でつながる恐怖

元妻は指導者の制止を振り切り、家族の反対も押し切り、大学を辞めて私のもとへ飛び込んでくれました。次は別の人のところへ飛び込んでいくんだと理解したとき、もう止めても無駄なんだと諦めました。

その後、日に日に夫婦の溝は広がっていきました。
元妻は私が近くを通るだけで距離をとります。
また、元妻の部屋に入ったときもベットから飛び起き、これ以上入ってくるなという牽制をするようになりました。

やはり修復は不可能なようです。
私は家を出る決意しました。

離婚すること、家を出て別の場所で生活すること、これまでの経緯について、家族ぐるみで付き合いのある友人(旦那さん)に報告しました。私が話し終えると友人は「知ってたよ」と返事をしました。

どうやら元妻はママ友たちに彼氏を紹介して一緒に食事をしていたようです。
これまでの家族同士の集まりで知らなかったのは私だけだったようです。

私は全員からコケにされているように感じました。

聞けば、ママ友たちは本人(元妻)がそこまで貫くというなら口出しできない、ということだったらしいのですが、心に余裕のない私は全員が敵だと思えました。

私自身も改めて離婚に踏み切る決意ができていきました。

親権問題と財産分与

まず親権について話し合いをしました。
結論、私は適任ではないということになりました。

理由として、私は全国の企業に出向き仕事をしており、子どもの面倒を見れないからです。
また、私の母親は幼いころに離婚して行方知れず、父親、祖父や祖母は他界、兄は遠方に住んでおり預けることもできません。

実質、育てるのは無理ということで元妻が育てることになりました。
元妻の家族は、父、母、叔母がいて、常に誰かが面倒を見れるということで元妻に親権を持ってもらいました。

不動産は非常に厄介

次に財産分与の問題がありました。
現金以外では車2台と持ち家があります。
ファミリーカーを元妻、もう一台を私が引き継ぐことになりましたが、最後にこの家の処分をどうするかが検討材料となりました。

この家には、私の仕事場と元妻の店舗が併設されていました。
私は自宅で事務処理や資料作りをするだけですが、元妻はお店を経営していたので自宅から移動することができません。
よって、元妻が子どもたちを養うために、仕事場であるこの家が必要になります。

話し合いの結果、私が家を出て元妻と子どもたちが持ち家に住むことになりました。

しかし、ここで問題が起きました。
元妻に住宅ローンの名義を引き継ぐことができませんでした。

『債務引き受け』と言うのですが、貸主である銀行からすると「旦那さんを信用してお金を貸したので、貸した後で借主が変わるのは困る」との理由で、貸主の了承がなかれば債務者の変更はできないという仕組みです。

これに銀行の承諾が得られなかったのです。

話し合った結果、元妻から私、私から銀行に住宅ローンの支払いをすることにしました。

そして私は家を出ました。


元妻の開き直り

住宅ローンは毎月決まった日に引き落とされますが、元妻からの入金がありません。

元妻に事情を聴きに行くと「ないものは払えない」、「私に死ねって言うの?」との回答が返ってきました。

私は元妻に「約束したから家を出た。大変なのはわかるけど、これからは払えるようにしてほしい」と伝えその場を去りました。

しかし、この話が違う思惑で周囲に広まったようでした。
元妻は「旦那にお金を請求されている」「家のお金を払うように言われているが、名義を渡さない」と家族や知人に相談していたようです。

この話を聞いた元妻のご家族や知人はひどく怒っているようでした。
元妻のご家族からひどく当たられましたが、なによりも大変だったのが知人と称するチンピラ中年女性が登場したことでした。

拉致されサインを強要される

ある日、元妻から「相談に乗ってくれる人がいるから、自宅(持ち家)に来てくれ」と連絡がありました。
指定された時間に自宅へ向かうと、元妻の車(ファミリーカー)の助手席に見たことのある女性が座っていました。
それは元妻が経営しているお店のお客(女性)でした。

元妻から「私の車に乗って」と言われました。
私は家で話をすると思っていたので「どこに行くの?」と質問しましたが、元妻は「いいから乗って」と言い、私は渋々車の後部座席に座りました。
そして、自宅からかなり離れたファミレスに到着しました。

その女性は私に「この店が行きつけだから」と違和感のある説明をしました。合わせて店員さんに「久しぶりやな。メニュー変わったんちゃうか?」と話しかけましたが、店員さんは『はぁ?』という顔をしていました。

私は何の茶番だと思いながら、仕組まれた思惑を理解していました。
そして心の中で『だいぶ遠くまで来てしまったが、最悪歩いて帰れる距離だな』などと考えていました。

その女性は案の定、離婚の話をしてきました。
まず、私がいかにダメな夫かというのをまくしたてました。次に「お前みたいな者は家を元妻に渡せ」「養育費の額を決めるからここに年収をかけ」「そしてこの離婚協議書に今すぐサインしろ」と詰め寄ってきました。

私は「今すぐ決められないし、あなたにどうこう言われる問題じゃない」と伝えると、先方の女性は「サインしな先に進めんやろ。時間はあるんやから納得したらサインしろ」とさらに詰め寄ってきました。

私は改めて「今すぐ決められないし、あなたにどうこう言われる問題じゃない」と伝えました。
私は何を言われてもこの言葉以外返しませんでした。
何度かやり取りしているうちに、その女性は「いつまでに答えを出せるか今答えろ」と詰め寄ってきました。

私は「とりあえず、2,3日考えてみます」と伝えると、女性は「よし、3日やるから3日後にサインしてもってこい」と言い放ちました。

私はファミレスを出て自宅に向けて歩き始めました。
元妻は「え?送っていくから車に乗りなよ」と言いましたが、私は「冗談じゃない」と吐き捨てて歩いて帰りました。


3日後、私は指定された場所に行きませんでした。
当日、元嫁からLINEで「なんでそんな礼儀知らずなことをするのか、〇〇さん(女性)があんたのことつぶしたるって言ってたよ。敵に回して損するのはあなただよ」という内容が送られてきました。

言ってる意味がさっぱりわかりませんが、私は「いく理由がないのでいかなかったよ」とだけ伝えました。そして心の中で『俺をはめようとしたこと、忘れるなよ』と何度もつぶやきました。

離婚の協議については、離婚協議書をこちら側で作成しサインをもらうことにしました。その際に「騙されてサインした」とか「無理やりサインさせられた」とかの問題が起こらないように、元妻の家族に同席してもらうよう伝えました。

兄の言葉『知ったこっちゃねぇ』

私は遠方に住んでいる兄に電話をしました。
「遂に離婚することになり、向こうの家族と話し合うことになった。自分一人で対峙するのは心細いので兄貴に同席してほしい」と伝えました。

すでに両親が他界しているので、頼れるのは兄だけだと助けを頼んだのです。
しかし兄からの回答は「元妻も俺の家族、お前だけの味方なんかできない。そもそもなんで俺がお前の言いなりに行動しなきゃいけないんだ。お前らのことなんて知ったこっちゃねぇんだよ」でした。

私は「そうだね。迷惑かけてごめんね」と伝えて電話を切りました。電話を切ったあと、しばらくその場から動くことができませんでした。
視界が狭くなり、呼吸がうまくできず、このまま死んでしまうのではないか、と本当に焦りました。
心の中で『大丈夫、いつものこと』『自分で何とか出来る』と何度も繰り返して少しずつ心を落ち着かせ暗闇から戻りました。

私は大人になってから人に何かを相談したことがありません。思い返せば子どものころに兄に悩みを打ち明けて、こっぴどく叱られた経験が「相談すると損をする」と刷り込まれているせいでした。

改めて「人に頼ってはいけない」と強く刷り込まれた瞬間でした。


元妻から言葉『金を返せ』

離婚協議書にサインをもらう日、協議の内容には納得してくれましたが、元妻は何度も「私が稼いだお金を返してほしい」と言っていました。

私は「二人で稼いだお金を家族で使ったんだから、どちらのお金とかないよ」と説明しました。
しかし納得せず「お金を取られた。なんで返してくれないの」と言い続けていました。

このやり取りは本当に疲れました。想いや考えは通じないんだなと心の底から痛感しました。

心境の変化

思い返せば、離婚することになった当初、元妻は「離婚しても人として応援している」と言っていました。また、交際当初から「もし別れることがあっても、一生友達でいたい」と言っていました。
しかし離婚協議書を書くころには、私を疑い、騙し、ののしるようになっていました。

私自身も騙され、ハメられたこと、周りの知人に彼氏を紹介していたことなど、頭から離れず憎しみを持っていました。

今でも、私を愛し支えてくれた妻と、憎むべき元妻が別の人間として頭に記憶されています。

離婚というのは本当に苦しいのだな、と身に染みて感じました。

子どもたちへ

みんなとの別れはとてもつらかったです。
そして、このような状況を作ってしまい本当に申し訳なく思っています。

私は君たちがかわいくて仕方がありません。

これからも、持ち前の明るさと愛情深さで幸せに暮らしてください。
ちょこちょこ遊びに行くし、陰ながら応援しています。
大人になって自分の意志で会えるようになったら、一緒に遊びましょう。
その時を楽しみに待っています。

元妻へ

不思議なもので、幸せになってもらいたいとは思いませんが、不幸になってほしくないと思っています。

身体に気を付けて、子どもたちのこと、よろしくお願いします。

最後に

離婚の体験談を執筆しました。
私の記憶にある出来事を記載しましたが、あくまで『私の解釈』です。

こんな結果になってしまいましたが、元妻にはとてもよくしてもらいました。15年ほどの結婚生活でしたが、とても幸せな時間を過ごすことができました。離婚はしたけど結婚って良いものだなって思っています。

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