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インターネットは本当に進化するべきか?

ちょっと脳内の整理がしたかったため、昔からの疑問を書きなぐっていく

 僕は小学生くらいの時期からインターネットにずっと触れ続けてきてもう18年近くになる、昔はインターネットにより、より人に焦点が当たりステータスなどで評価されない世界が構築されると純粋に思っていたんだけど、大学生くらいの時期からそれは無理だなと思い始めてきた。

 いくつか要因があると思っているが、大きくまとめると、それはインターネットにいる人間が増えたからというものだと僕は考えている。
というのも人は判断基準を定めるとそれを変えたがらないという傾向があるようで、旧来の判断基準(ステータスなどによる判断)を持った人が入って来るにつれ、それで判断できるようなシステムが増えてきたからだ。
柔軟な人よりも、柔軟でない人の方が多い。 当然、大多数の柔軟でない人にとって”楽”なシステムにインターネットが変わっていった。 少なくとも僕はそう思えて仕方ない。
むしろ、昔の可塑性のあるインターネットというものが特異点であったのではないかと思わずにはいられない。

 正直、今のインターネットに僕はあんまり夢や希望というのを持ってないし、これからも持てないと思う。
よりステータスによって判断するインターネット社会は拡大していき、中世の絶対的な階級社会が復活するのも時間の問題だと思っている。
また、個人の行動の追従がより簡単になり、様々なデータと結びつけられることにより、それが加速していくのは容易に想像がつく。
そしてそれを打破するための力ももはやインターネットには残っていない。
そして、インターネットに置き換わるだけの何かを探す人もいなくなるだろう。
また、居たとしてもインターネットにより力を付けた巨大資本により蹂躙される可能性が高く、どちらにせよ居なくなるのは時間の問題だ。

 最近のインターネットは、憎悪の拡大・拡散が容易になりすぎた。
先ほど、twitterでロシアから出たロシア人に対する困難な状況に関するtweetが流れてきた。
SNSなどでロシア人に対する誹謗中傷も多いと聞く。
しばらくはロシア人というステータスのみで判断され、様々な差別に会う人は多いと思う。
今のインターネットにそれをなくすのは難しく、寧ろ"ロシア人の特徴"などといって差別を拡散する方向に行くと考えている。
何故ならそのような判断基準を作ったほうが、思考を放棄でき”楽”だからだ。

 人間にインターネットは早すぎた、人類として倫理観が育ってない。
そして手の打ちようも僕が思いつく範囲では無い。
これを打破するためには”不便を受け入れる”ということが必要だが、今の”効率こそが善”という人間には受け入れられないしあったとしても大多数が正義の時代では排除されるだけだろう。
今こそ”効率とは何か?”、”何を効率の犠牲にしているのか?”等の問いが必要でそれを考える必要があると思うが、それを考え実現していくことは効率と相反することなので、それを考えることを人に期待するのはあまり筋がいいとも思えない。
効率を覆うような何かが必要だと思うが、それが何かというのがわからない。
少なくとも個人主義で自由が善と考えられている社会ではそのようなものがあったとしても、到底受け入れられないだろう。
どうしたらいいかわからない。

 インターネットによって発生する様々な問題はシステムの問題と人間の倫理観の問題とを両方持っている。
システムによる解決だけではなく、人間自体の問題も何かしらの形で解決しなければならない。
しかしこれに関して、個人の努力で解決させようとするのも難しいだろう。
人間自体の問題をシステムを通じて解決させる方が、僕はいいと思っているが、それも本当に良い解決方法なのかと問われると自分自身、本当に良い解決方法だと自信を持っていうことは難しいし、どのようなシステムで解決するべきかというのもなかなか思いつかない。

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