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戦争の先の戦争とは

 戦争は人類の歴史である。人は誰かのために戦い、何かのために争ってきた。それは否定できないし、実は否定してはいけないことだと私は考えている。何故ならば、生きることは「戦い」であり「争い」であるからして、それを否定することは「死」に等しいと思うからだ。

 それを踏まえて、今度のウクライナ戦争は悲劇であると考えている。それは戦争で被害を受けているウクライナ国民が悲惨で見ていられないというのもあるが、この戦争がウクライナ国民の為の戦争ではなく、特定の団体の利益を生み出すための戦争であるからだ。死んでいくロシア兵も同様に悲惨だ。自分達の純粋な意志で戦った兵がどれだけいるのだろうか?ウクライナを取ったところでロシア兵個人の利益にどれだけ結びつくのか?

 ここで問題にしているのは「ナショナリズム」と「個人主義」は対立、あるいは遊離するのか?ということだろう。愛国心、国を思い、守る気持ちがあるから、家族を守りたいから武器を持って戦う、これは尊い感情だろうし、今の日本では薄れていそうだけど、今のウクライナでは最高潮に高まっている感情だと思う。同時に、戦いに行けば死ぬかもしれないし、人を殺したくないのに殺すかもしれない。やりたくなことをしなければならないのだ。これは一見相反することだと思う。これに似た状況で、憲法に戦争放棄と謳いながら戦力を保持している状態もあるだろう。

 この矛盾があると兵士、いや人間は心が病んでしまうのだ。誰だって理由もなく殺されたくもないし、殺したくもないのに、「大義」で目隠しして引き金を引いているのである。これは昔も今も変わらない。

 さて、この大きな矛盾を解決するにはどうしたらいいのだろうか?

 前々回の記事で人間形成においてのミクロ、マクロでの安定が平和を導く、ようなことをいった。そして、それをするにはどうすればいいかまだ書いていなかった。そして、前回から引き続き、上記の矛盾への回答も書いていない。   その回答として以下のことを私は考えている。

 実はこの幾つかの問題は一つの解決策で同時に解決できるのだ。

それは「戦争」である。正確には「戦争の先の戦争」である。

 私はこの戦争が行われている今だからこそ、「戦争の先の戦争」を考える必要があると思っている。

 戦争の先の戦争とは何か?

簡潔に言えば「地球との戦争」である。人類は人類同士の戦争から、その先にある「地球」との戦争に向かう必要がある、私はそう考えているのだ。

ただ、これを読んだ人はチンプンカンプンであるかもしれない。次回からそれを説明いて行きたいと思う。

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