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おいとべに④


不定期連載小説です。


「吉岡さん、どうにかならないんですか?少し落ち着くまでいさせてあげるとか」
 良彦の背中を摩りながら七海が真剣な表情でそう言って来たので、清彦は困ったような顔して初江を見た。初江はうんうんと頷きながら「大切な姪っ子の為なんだから、人肌脱ぎなさい」と言ってきた。もはや「甥っ子です」という事も言えずに、清彦は頭を搔きながらまた泣きそうな顔になった。
「でも、親には連絡しないと。心配するし」
「やだ!」良彦は大きな声で即答した。そして、小さく「それに、おばあちゃんが知ってるし」と呟いた。
「何?お袋が知ってるのか!?」
 清彦がびっくりして大きな声を出すと、良彦は涙を拭いながら、赤くなった目を彼に向けた。
「こっちに来る前にメールしたもん」
 清彦は思わず天を仰いだ。信じられない。
「知ってるのに、お袋は何でお前を止めないんだ!?古川を抱きこんでお前に薬与える手伝いしたり。いったい何考えてるんだ?」
「おばあちゃんは悪くないもん。私の唯一の味方だもん」
「味方ってな、お前には親だっていてだな」
その言葉に良彦は見る見る表情を崩していった。そして、「パパなんて大嫌い!だって」良彦はそこで言葉を切るとまるで汚物を吐き出すかのような表情になって「だって、私の事、私の事、恥ずかしい!って言ったんだから!」と叫ぶように口にするとまた泣き崩れた。
これには初江も身を乗り出して、良彦の背中をまるで濡れた子猫をあやすかのように摩りだした。七海は涙ぐんでいる様に見える。清彦はまるで自分が悪者になった様な気持ちになり、自分の事じゃないのにばつが悪かった。明彦だったら言いかねないし、何となくその心情も理解できていたからなおさらだった。
「でも、愛美さんもいるだろ?」
「ママはパパが一番の人だもん。私の事は見てみぬ振りよ。大切にしてくれるけど、私の話なんかちゃんと聞いてくれたことないもん!」
 良彦は初江の腕の中からそう言うと、また思い出したかのように泣き出した。そして、嗚咽を漏らしながら、途切れ途切れ喋りだした。
「私、私、自分の事、悪いって思って、ないの。だって、だって、私、女、女の子なんだ、もん。自分の、体が、男の子だって、分かってるけど、でも、でも、女の子なんだもん。私、おかしく、おかしくないもん。だから、パパ、と、ママに、その気持ち、ちゃんと、ちゃんと話したら、パパ、が、急に怒り出して、パパが、急に怒って、私に、ひどい事言ったの!」
 良彦は涙ですっかりぐちゃぐちゃになった顔で、突き刺さるような声を清彦に向けた。その場はすべて良彦を包み込んでいた。それは清彦も同じであった。
「パパ、パパが私に、お前には、お前にはがっかりだって言ったのよ!恥ずかしい!がっかりだって!私に怒鳴ったのよ!吉岡の恥だって!ママも何も言ってくれなかったの!何も言ってくれなかったのよ!」
 良彦は全ての気持ちを振り絞るようにそう言うと、また、初江にしがみつくようにして体を震わせた。初江も何も言わずに彼の体を摩ると、親愛の情を示すように頬を彼の髪に寄せた。七海はすっかり涙を流すままにしてしゃがみこむと、自分のハンカチで良彦の涙を拭って優しく彼の髪を撫でていた。
一方、清彦は何か言い知れぬ感情が自分に渦巻いている事に気が付いた。怒りのような、悲しみのような、昔の自分を見ている様な複雑な思いが、思いもよらず込み上げて、甥の鳴き声だけが響く空間にそれは自然と口から出てきた。
「・・・分かったよ」
まるで自分の意思とはかけ離れている様なその言葉に、自分で驚きを反芻しながらも、一瞬で表情を変えた初江と七海の顔、そして、涙の流し過ぎでほうけたような顔になってこちらを見上げてくる良彦の顔を見て清彦はさらに言葉を続けた。
「あぁ、もう。仕方ないな。まったく」
 清彦はテーブルのビールを手に取って全部飲み干すと、勢い良く音をたてて空の缶を置き、一息ついた。そして、自分に向けられた視線を感じながらも、そちらを見ないでぎこちない言葉を彼らに向けた。
「とりあえず、あれだ、落ち着くまでだぞ。いいか、ずっとじゃないからな。向こうには俺から連絡しとくから、でもだな・・」
 清彦が言葉を言い終わる前に、良彦が初江の腕の中から飛び出して、強く清彦にしがみついた。
「ありがとう!それでこそ私の叔父さん。大好き!」
 笑顔になった良彦のシャンプーの香りが清彦の鼻をくすぐり、久しく感じた事のない人の抱擁に心が小さく揺れるようだった。
「いいか、しばらくだからな。それに、ここにいるからには俺の言う事をちゃんと聞くんだぞ」
「分かってる、分かってる」
「たく、調子の良いやつだな。さっきまで泣きじゃくってたのに」
 良彦は清彦の顔のすぐ傍で涙を拭いながら肩をすくめて、小さく舌を出した。照れを隠すようなその仕草が清彦のしばらく眠っていた何かを揺り動かしたようだったが、本人にはその自覚が無いようで、とにかく、良彦も落ち着いたようだし、すっかり変な感じになったこの食卓をうまい具合に正常な状態に持っていこうということに意識が集中しだした。
「こりゃ、歓迎会に切り替えだね。さっそく乾杯しなおそうじゃないの!」
 涙を拭いながら初江がそう言って来たので、皆もそれに賛同して、思い思いに自分の飲み物を手に取った。
「じゃあ、新しい仲間、若くて可愛いよっちゃんに!」
 初江が音頭を取って、四人は乾杯してそれから、煮詰まり気味のすき焼きに再び手を伸ばした。「美味しい!」なんて言いながら良彦が微笑んだので、何故か皆に笑顔が広がった。新しい同居人を受け入れるかのようにアポロまで彼の足元で親愛の情を示した。
「よろしくね、アポロ」
 良彦がそう言ってアポロの喉を撫でると、アポロは嬉しそうに喉を鳴らした。

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短編、長編ありますが、おおむね文字がある一定の思想で羅列されています。

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