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第49回 もう会えない

 2020年12月7日の深夜。
 病院に着いてから、五時間ほどで――母は亡くなった。

 くも膜下出血のグレードⅤだった。手の施しようが無かった。奇跡を祈るしか他に道は無く、そして奇跡は起きなかった。

 地下にある霊安室で、母の亡骸を前にしながら、私はこれが現実だとすぐには受け止められずにいた。
 医者の説明では、くも膜下出血は突然発生するものであり、未然に防ぐことは出来なかっただろう、とのことだった。
 天寿というものがあるのなら、この日が母の寿命だったのかもしれない。
 齢七十二歳。
 こんなに早く亡くなると知っていたら、もっとやれることがあった。

 母はずっと寂しがっていた。息子である自分の結婚を喜んでいるのと同時に、家を離れていったことで、何かぽっかりと穴が空いたような状態になっていた。だから、出来るだけ帰れる時には、一時間でも二時間でもいいので、実家に帰って、母と話をするようにしていた。
 世界が感染症拡大により激変してから、実家へ帰る機会も減ってしまっていた。自分が下手に立ち寄ることで、老いた両親の感染リスクを上げるようなことはしたくなかったからだ。でも、今となっては後悔しかない。

 自分は、二人の姉から十年ほど遅れて生まれてきた、末っ子長男だった。
 それゆえに母からはかなり甘やかされて育った。
 私もまたそんな母に甘えて生きてきた。

 いつも落ち込んだ時は、母に辛い真情を吐露し、聞いてもらっていた。
 小説家としてデビューした後、『ファイティング☆ウィッチ』の打ち切りや『天破夢幻のヴァルキュリア』の打ち切りの時も、気落ちしている私のことを慰めてもらった。

 それでいて、母は決して甘やかしてばかりではなく、時には心を鬼にして私に対して厳しい姿勢を見せることもあった。

 母は、立派な人だった。

 この逢巳花堂というペンネームを作る時にも、母が一部関わってくれていた。
 私は最初、逢巳堂花(おうみどうか)にしようと考えていたが、それはやめたほうがいい、と指摘してきたのが母だった。「語呂が悪い」と言って、それならば逢巳花堂(おうみかどう)のほうが言いやすいし覚えやすい、とアドバイスをくれた。
 あの時、母の言葉がなく、逢巳堂花にしてしまっていたら、今ごろどうなっていただろうか、と考える。
 ペンネームの語呂の悪さは、作家の認知性にも繋がってくる。もしかしたら、もっと苦労していたかもしれない。
 逢巳花堂にして良かった、と思っている。

 私の本名もまた、母が名付けてくれた。
 しかも、その背景には、祖母とのぶつかり合いがあった、と聞いている。
 当初、祖母は孫である私の名前に、ごく平凡な文字を使おうとしていた、とのことだった。
 けれども、母はそれを良しとしなかった。

『この子にはもっと大きな道を進んでほしい』

 そんな願いを込めて、私に非凡な名前を授けてくれた。
 どれだけ非凡かは、「逢巳花堂」の「堂」の字は、私の本名から一字取ってきている、と言えばよくわかるかと思われる。

 とにかく、本名も、ペンネームも、母は私に素晴らしい名前を与えてくれた。
 そのことに感謝の念を込めて、恩に報いるために、作家として大成し、いっぱい親孝行をしたいと思っていた。

 だけど、現実は厳しく、私は作家として失敗続き。

『いつか金の卵を産むようになって、お母さんに海外旅行でもプレゼントするよ』

 そんな大言壮語を吐いていた自分が情けない。

 結局、私は何も出来なかった。
 何も出来ないまま――母は旅立ってしまった。

 やがて、母の遺体と共に、私は実家へと戻った。
 母の遺体の側にはドライアイスが置かれ、葬儀の日まで安置されることとなった。

 翌日の夜、日曜日の夕飯として作られていた粕汁を、遅い時間ながら、私達家族は食べた。
 母が作った最後の料理。
 もう二度と食べることは出来ない。その意味を噛み締めながら、私は粕汁をすすった。

 父は、食べることを拒んだ。
 母のことを深く愛していた父は、私以上に、母の死を受け入れることが出来ずにいたのだろう。

「もう食べられないんだよ」

 姉にそう言われても、父は絶対に食べようとしなかった。

 私は、いよいよ最後の一口を食べきるという段になって、急に涙が溢れてきた。
 粕汁を飲み込んだ後、両親の寝室へと飛び込み、母のベッドに突っ伏す。幼い頃から慣れ親しんだ母の匂いに、老齢の香りも混じっている。
 もう二度と会うことは出来ない。話をすることも出来ない。親孝行をすることも出来ない。

 母は亡くなったのだ。

 私はしばらく、ベッドに顔を埋めたまま、嗚咽を漏らしていた。

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