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第46回 空洞

 表面上は平穏な日々が続いていた。

 パワハラを繰り返していたY課長が部署異動となったことで、会社での仕事はだいぶ楽になっていた。
 ようやく落ち着きを見せてきた私に、お嫁様もホッとしているようだった。

 しかし、相変わらず薬の服用はやめられずにいた。
 小説の世界と完全に縁を切った私は、テレビで小説原作の映画のCMが流れるだけで、長時間不機嫌になることもあった。それどころか、小説と関係のない、お笑い芸人が楽しそうにバラエティ番組に出ている姿を見るだけでも、苛立ちを覚えるようになっていた。あっちは成功者であり、自分は失敗者である、ということを如実に感じさせられるからである。

 仕事は順調にこなしながらも、どこか不安定な日々を送っていた。

 そんな中で、とうとう日常が激変する、あの事件が勃発した。

 2020年2月、ダイヤモンド・プリンセス号。
 武漢に端を発したと言われている、あの恐るべきウィルスの感染者が、船内で発見されたというニュースが流れた。
 私は、その報道を、どこか他人事のように聞いていた。
 その昔起こった世界的な感染症騒動の時も、日本はほとんど無関係でいた。今回も大丈夫だろう、とタカをくくっていた。

 それが、あっという間に、世界の様相が書き換えられていくこととなった。

 新婚旅行にまだ行っていなかった私達夫婦は、感染が落ち着くまで海外旅行はお預けだね、などと呑気なことを話していたが、事態はどんどん深刻なほうへと向かって行き、ついに、政府が緊急事態宣言を発令するまでに至った。

 日本社会はパニックに陥った。

 スーパーからは買いだめのため食料品がごっそりと消えて無くなった。
 私もまた、この先どうなるのだろうという不安を抱えながら、籠城戦を開始した。なるべく外へ出ないように気を付けていた。やむをえず外に出た時は、あまりの静けさに驚かされた。昼間に渋谷のスクランブル交差点へ行った時など、まるで映画のワンシーンのように、人影がほとんど消えてしまっていた。

 会社はリモートワークを導入した。初めてのことで戸惑いながらも、心がすり減って弱っていた私には、タイミングの良い出来事であった。通勤に片道一時間かかっていたので、リモートワークが出来るなら、その時間分家庭のことに専念できた。
 2019年の末から、猫を飼い始めていた。しかも二匹。その子達の世話もあったので、在宅で仕事が出来るのは渡りに船でもあった。

 拳法の道場は当然休みとなった。
 代表の座を退いていた私は、元々距離を取ってはいたのだが、ストレスの一因でもあったので、拳法に関わらないでいられるのはちょうど良かった。

 それもこれも、全て一過性のものだと、当初は思っていた。
 まさかその後二年以上も続くことになるとは、誰が予想できただろうか。

 いつまで経っても好転しない感染状況。

 世間が不安に覆われている中で、いち早く新しい世界に順応し始める人々が現れた。
 オンラインを使った様々な活動である。
 その中には投稿サイトを利用しての執筆もあっただろうが、あいにく私は、小説とは縁を切っていた。
 なので、もっぱら目につくのは、動画配信系のコンテンツであった。

 私は、空っぽの中身を抱えたまま、虚しさを忘れるために色々なことをして過ごしていた。
 TikTokやゲーム実況配信等……新しい分野に、自分の可能性を見出そうと必死だった。
 でも、そのどれもが上手くいかなかった。

 小説を書きたい。だけど書きたくない。
 小説を書く力がある。だけど自分には書けない。
 だから他のことをやるしかない。
 けれども自分には配信者としての情熱も才能も無い。

 矛盾する気持ちを抱え、何も成し遂げられないまま、ズルズルと時間だけが過ぎ去っていった。

 もうこのまま何者でもないまま、自分は終わってしまうのではないか。
 そんな風に考え始めた頃――

 私は、ある報せを目にすることとなった。

記事を読んでいただきありがとうございます!よければご支援よろしくお願いいたします。今、商業で活動できていないため、小説を書くための取材費、イラストレーターさんへの報酬等、資金が全然足りていない状況です。ちょっとでも結構です!ご支援いただけたら大変助かります!よろしくお願いします!