今日もさんじゅうごどの体温は

人がしんでいく映画で泣けないことを冷酷だと思いますか、もしそうなら、わたしやっぱり他に帰る場所があるのかもしれません。 
 
(散文『くすりゆび、おそろいのばんそうこう』より)


しつれんのさみしさ、まだ癒えたわけじゃないのにいちども泣いたりはしていなくて、余計に消化がむずかしい、泣かないでいるとほんとうに涙、出なくなるもんだなぁって感心するくらい。

自分以外への怒りみたいなものもみんな哀しみに変わっちゃうし、哀しくっても泣くのは下手くそでそのかわりにけらけら笑ったりするし、怒り方はわからない、だれかの前で泣いてしまうことは、ずっと怖い。
泣かないことが強いなんてさらさら思っちゃいないけどさ、つよくなきゃ、できるだけ笑ってなきゃ、だってほら、きらいになっちゃうかもって、呪いはいつまでもとけないらしい。
適切にできないなら諦めてしまったほうがだれかを困らせなくってすむなんて、ううん、本当はもっと自分勝手なはなしで、必要なだけなぐさめてもらえなかったら、さみしくなっちゃうからかもね。際限なく欲しがるくせして。

 
かなしいだけの映画、薄暗い映画館で、ぼろぼろと涙をこぼすかわいい女の子がずっとうらやましかった、
お話のなか、かなしければかなしいだけ苦しくなって逃げ出したくなって、上手に涙も出ないこと、冷たいひとだと思わないで、傷つかないように軽蔑してしまいたくなる、
浅はかで、表層的で、愚かなのねって。
それは、あのかわいい子の涙の質量を勝手に推し量るわたしにも返ってくるのに。
  

ねぇだってさ、おとなだからって、悲しくって辛くってやりきれないとき泣かないでいられるなんて嘘だもん、泣いちゃいけないわけないもん、ね、そりゃあいつでもどこでもわんわん泣いていいよって訳にはいかないし、だからせめて、素直な子どものように泣ける場所があなたにあればいいなと思います、すきなひとたちにとってそういう場所であれたらなぁとも思います。
わたしも、わたしにとってのそういう場所、がんばってがんばってつくるから、今はまだ拙い文章の中で泣かせてね。




生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。