むらさきいろのけむりはまぼろし

“はじめてのおつかい”は、父親のたばこだったような気がする。

まだ野ざらしの自販機で子どもがたばこを買えてしまった頃、3、4歳のわたしは、5分もかからない場所にある小さな商店の前の自販機に硬貨をにぎりしめながら歩いていった。
父親の吸っていたたばこの箱、見覚えのあるパッケージは背伸びしても到底届かない一番上の段に並んでいたので、どうしよう、と一瞬戸惑ったのだけれど、小さかったわたしにたばこの味や重さの違いなどわかるわけもなく、とりあえずめいっぱい手を伸ばして、届いたボタンをぎゅっと押した。
落ちてきたたばことお釣りを持って家に帰り手渡して、確か銘柄の違いを叱られて、それ以降おつかいを頼まれることはなかったな、というのが、わたしのたばこに関する一番古い思い出。

幼い頃から周りに喫煙者が多く、身近ではあったけれど、たとえばたばこを吸う親兄弟や親戚の姿を見て、“うつくしい”とも、“吸ってみたい”とも、少しも思ったことがない。どうしてそんなもの吸ってんだろうなって、ずっと思ってたし。

なのにどうして、

煙草を吸う人を好きになって目の前で箱が空になったら、「そんなもん何に使うの」って言われながらそれをもらって、ひとりぼっちが怖いとき、なんにもないテーブルの上に並べておもちゃの銃で撃ったりして遊びたい。ソフトパッケージが好きなら、くしゃくしゃのそれを捨てる苛立った横顔が見たい。

煙草を吸うおとなのひとをどうしようもないくらい好きになって、甘やかすだけ甘やかされて、でも好きになってはもらえなくて、多分綺麗なひととどこかへ行ってしまったりして、空っぽになって、コンビニでその人の吸っていたラッキーストライクを買って、ひとりの部屋で火をつけて、咳をしたりしたい。

こんなツイートを繰り返したりたばこをテーマにした詩や散文を書いてみたりして、ドラマや漫画の喫煙シーンに想いを馳せ、そんな経験もないくせにたばこがモチーフの失恋ソングばかり好きになって、すきなひとたちのたばこを吸う仕草を絵画を見るような気持ちで見てしまうのだろう。

たばこを吸う人の弱さを肯定してみたかったとか、やわらかい思い出をつくりなおしてみたいのかもとか、つまらない、もっともらしい理由にすることもできるかもしれない。たばこを吸うひとの小さな依存、依存先が違うだけでだれでも持っているものなんだろうから、そういう、ひとの弱さみたいなものは、どうしたって生きているんだなぁってうつくしく思ったりするし。
でもきっと、結局のところ感覚でしかなくて、感情がどうしたって揺れるとか、うつくしさなんて、好きなんて、そんなものでいいかな。
父親の吸っていたたばこの銘柄なんて、欠片も覚えていないから。


この先、自分でたばこを吸うことは無いんだと思う。
もしほんとうに好きな人といっしょにいられることになって、その人がたばこを吸っていたら、身体に悪いからやめてほしいなぁとたぶん思ったりするんだろうし、そういう、現実もあって、それはそれで、とんでもなく愛おしいんだけど。

わたしはこれからも、ろくでもない理由で煙草を吸いはじめるひとも、惰性でやめられなくなったひとも、火をつける仕草もたばこをはさむ指もくわえたくちびるも、乱暴につぶされるたばこの一本も、フィクションの中で愛して愛して、また書いてしまうんだろう。




#雑記 #エッセイ #たばこ #煙草

生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。