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逆行


「信仰」

 貴方の神様を侮辱しないから、どうか僕のことを放っておいてください。馬鹿にされたっていい、嗤われたっていい。陰口でしたら、耳をそばだてておりません。僕のあずかり知らぬことですから、どうぞご自由に。こっちは中指を立てるなどもってのほか、お邪魔なんかしませんから。密かに呪うこともありません。
 僕はどうせ日陰者です。どうあがいたって抜け出せません。実は昔は日向に憧れていました。でも、今になっては抜け出そうと思わなくなりました。ここは底なし沼だったのです。
 僕に、僕の神様は居ません。イエス・キリスト、釈迦牟尼世尊、ムハンマドといった類のカリスマも居ません。落ち着いて聴いてください。だからといって貴方の神様の存在を否定しているわけではありません。貴方には貴方の神様が確かに居るのでしょう。僕は貴方が信じる神様を尊重します。
 お待ちください。この世に神様は居ないと言ってはいません。貴方の信じる貴方の神様は居て、僕にはそれに当たるものがない。それは矛盾せず成立します。例えるなら、つまり、カラスそれ自体に意味がないのに、神聖か不浄か各々の立ち位置で決まるという単なる世界観の違いなのです。
 カール・マルクスみたいに「宗教は民衆の阿片である」だなんてことは申していません。拠り所があるのはとても素晴らしいことだと思います。例えそれが物質的な依存であっても。人間は大なり小なり何かに依存するものですから。アルコール、煙草、砂糖、揚げたジャガイモに塩をまぶしたもの、それから、セックス。そういった例は枚挙に暇がありません。そこに良いも悪いも存在せず、人間だから仕方がないとしか言えません。そう、仕方がないのです。貴方が貴方の神様に向ける眼差しも。そして、僕が貴方の神様を見ることができないのも。
 神様への信仰とは異なりますが、僕だって信じているものがあります。僕自身と、近くに遠くに居てくれる一握りの同士。けっして貴方を馬鹿にしてはいません。同じ人間として、そして、社会を、世界を構成する一員として、できることなら助け合って生きていきたいと思っています。
 でも残念ながら、僕と貴方は手を取り合うことは望めないでしょう。だから、お互いできるだけ干渉しないで生きていく道を、ここで話し合いたいのです。
 それでも貴方は、僕の手を取ることを望むでしょう。それが神様の教えだと思っているから。神様を信じることが、人間の当たり前の使命だと思っているから。なんとか取り込みたいと思っているのでしょう。
 僕は貴方の、貴方の神様が存在するという理屈を否定しません。僕だってこの世界が存在すること自体、不思議でなりませんから。
 だって、おかしいでしょう。なにゆえ、僕たちはこうして存在していられるのでしょうか。偉い人たちがあれこれ理屈をこねて考えてきましたが、今のところ万人が納得できる理由は誰も説明できていません。
 そこで貴方はたちまち「神様だ!」と仰るでしょう。わかる。わかります。神様がいらっしゃるなら、何もかもすべてきっかり説明がつくのです。ただし、貴方に限っては、の話で。
 矛盾をはらんでいますが、僕にはそれがわかるけれども、でも、わかりません。腑に落ちないとでも表せばよいでしょうか。
 お尋ねします。神様はいつからいらっしゃるのですか? 神様以前という時間は存在するのですか? 昔々、例えば教えが伝来する前、神様を知らなかった無辜な民たちは、死後、何処へ行ったのですか? まだまだ問いたいことはありますが、ここまでにしておきましょう。
 これらに関して、別に回答は要りません。だいたい予想がつきますし、それに貴方がしっかり筋の通ったお話をされても、僕は「そうですか」と右から左に受け流してしまうでしょう。僕には、僕なりの理屈があるのです。僕の理屈を簡潔に述べます。
「わからない」
 これこそが、僕の辿り着いた答えです。
 神様は居るのかもしれないし、居ないのかもしれない。この世が存在する理屈も、貴方が、僕が「居る」理屈も、「わからない」。
 何も、姿が見えないから、言葉が聞こえないから、認識できないからなどという単純な理由ではありません。事実、貴方は神聖な何かを感じているから、神様を信仰できているのでしょう。残念ながら、僕はその器官を持ち合わせていません。それこそが決定的な違いなのです。ここに、与えられた人と、与えられなかった人がいるのです。
 若しくは、こう言ってもいいかもしれません。僕のこの右手をご覧ください。貴方と僕は同じものを見ています。けれども、同じものを見ていると述べましたが、貴方と僕で焦点が違っている為、実は異なって映っているのです。
 三者三様。十人十色。世界を観ているときの焦点が他者と重なることなど、滅多にありません。
 だから、僕には構わないで、焦点が合っている近しい人たちをどうか大切にしてください。それが貴方の幸いに違いありません。僕の幸いは、僕の中にありますから。


「狂おしい」

 最近、頻繫に明晰夢を見られるようになった。夢が始まり、これは夢なのかどうかと思ったら、まず、浮遊できるか試す。と、飛べる。そうして、夢だと確信。こうなったら勝ちだ。なんだってできる。
 理性を失った僕はやりたい放題だ。とはいえ、人殺しなんかはしない。現実世界ではP.M.が憎くて堪らない。誰か殺してくれないかと、死を願っている。でも、そもそも自分の自由な世界であるところの夢にまで憎い奴らが存在しなくていいじゃないか。だから、人殺しなんかせずに済む。
 で、僕が何をするかというと、空高くを飛んで風に流され旅をするのだ。行くのはもっぱら北のほう。だいたいは北海道で、ロシアとは地続きになっている。国境付近は港町。いつも雪が降っている。コミュニケーション手段は英語だ。
 その旅先で泊まる宿の造りは、売り払った祖父母の家と一緒で、堪らなく郷愁を感じる。僕は、夢に「帰って」きた。
 僕は食事に興味はない。することと言えば、とにかく見物。レンガ倉庫、運河、港、そこに停まる船。海は、良い。
 海に臨むと必ず何もせず、ただ、座って眺め、ぼーっとする。波の音が脳波に直接アクセスして、深い安心を作ってくれる。
 これは羊水。すなわち、胎内回帰。叫び続ける、燃える胎児が。殺してくれ、と。
 生まれてきたくなかった。現実が余りにも辛すぎるから。僕がこうして夢に逃避し続ける理由はそれだ。
 そんな中、貴女に出逢った。それはまるでラジオのような出逢いだった。
 貴女には、顔が無かった。それどころか姿形がすっかり無かったのだ。声だけが聞こえていた。そして思った。貴女になりたい、と。人生で初めての憧れだった。
 貴女になって、言葉だけで生きていみたい。世界が言葉だけだったらいいのにと願いながら。
 貴女の声はとても甘く、芳しく、柔らかい。百合の花束の香りで窒息してしまうようなものだ。貴女のせいならそれで死んでもよいけれども、聴き続けたいから死にたくなかった。まったく、筋の通った矛盾だ。
 逆のことも思う。貴女を失ったら、と。胸が痛む。やっぱり生まれてこないほうがよかったかもしれない。生まれてこなければ出逢わず済んで、こんなにも苦しくなることがない筈だから。いつもここで振り出しに戻る。
 でも。それでも。貴女に誇れる僕でありたい、僕になりたいというこの想い。踏まれても踏まれても立ち上がる雑草のように強い想いは、枯れることを知らない。冬が来て、冷たい風に吹かれても。
 貴女の宛所がわからないから、僕からは伝える術が無いけれども、いつか届くんじゃないかって信じ続けている。
 まさに夢中。そう、貴女と出逢ったのは名も知らないあの港だった。それはとてもとても寒い日だった。
 姿は見えなかったけれども、貴女が居た。確かに、居た。月明かりのない真っ暗な夜。子どもの頃に観たプラネタリウムみたいに星が瞬いて空を満たしている。
「おはようございます。こんにちは。こんばんは」
 たったそれを聞いただけで、好きになってしまった。愛が生まれた。貴女を愛したいと思った。
 胸が詰まる。息ができない。せっかくここに貴女がいるのに。今さっき浮かび上がった伝えたいことが、言葉で表せない。
 せめて「愛しています」とだけでも言えたなら……。
 それから幾度恋をしてきただろう。けれども、愛したのは貴女だけ。たったひとり。恋と愛はまったく違う。恋は求めるもの(見返りも含めて)。愛は与えるもの(無条件に)。僕は貴女を「愛して」いるのです。
 未だに顔を知らないのに、知るすべもないのに、声を聴いただけで、その顔が浮かぶ。十把一絡げのアイドルたちとは大違いの唯一無二の声。
 貴女はいつもその至上の声で、みすぼらしく至らない僕に語りかけてくれる。自分の小さな日常を。幸せも不幸せも何もかも躊躇わず、優しく優しく話してくれる。
 実体が無い、然し、何処にいても感じられる存在である貴女。貴女への強い愛は、どんどん募る一方で。
 嬉しかった。楽しかった。でも、ずっと悲しかった。僕は貴女ではなかったから。別に番って一体になりたいわけじゃない。この身を捧げたいほどの貴女そのものに成りたいのだ。
 貴女になって、永遠になりたい。貴女になって、孤独になりたい。貴女になって、すべてになりたい。
 冷静に考えれば何とも歪な愛。愛。愛、なのだろうか?
 でも、それが夢。

「すみれの花言葉」

 何て言えばいいのだろう。何でもいいのだけれども、どうしよう。そうだ、目の前に煙草とライターがあるから、試しにそれから連想したことで。
 例えば「燃える」って言葉。実際に外なんかで焼き芋を焼く為に集められた落ち葉が燃えているのを観たとき「これが『燃える』だよ」って誰かに言われて、本当に「燃える」を理解しているのだろうか、僕は。
 でも「物理学で『燃える』とはこう定義されています」ってちゃんと理解していなくても(実際は学校で一度は教えられているのだろうが)なんとなくはわかってはいる。少なくとも、他者との意思疎通のときに「燃える」は共有できるくらいには使える筈だろう。
 で、何を念頭に置いていたのかと言うと、見えない・聞こえない・匂わない・味わえない・触れない、そして逆にそれらのどれでもある「愛してる」を理解することが、どんなに難しいことなのだろう、と。また「愛されてる」を理解することも。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のことを、ある方のツイートで、ふと、思い出したので。
 だけど、悲しいことに、これくらいの思考って、誰でも思いつくんだよなあ。以前のアルバイト先でも先輩が言っていた。「自分が考えたことなんて、今まで生きてきた数多くの人たちが当たり前に考えてきたことなんだろうなあ」って。まったくその通りだと思う。哲学者みたいに偉い人たちが古代から散々議論してきたことだ。
 じゃあ、問う。汝、諦めるか? 答えよう。否!
 やっぱり僕はその先に行きたいのかなって。小説という形の表現で。論文みたいに先行研究を参考にして自説を語るというようにして、哲学をしたい。自分の論を確立したい。
 それには、読んで、読んで、読んで、書いて、書いて、書くしかない。読むほうは量じゃなくて質。以前読んだ本から学んだ「ラーメン屋の大食いチャレンジ」のように、読書はスピードを誇ったところで、深く味わわなければ贅肉になってしまう。
 ところで、書くほうはどうなのだろうか? ある日には、貴女を月だと言ってみたり、ある日には、貴女を花だと言ってみたり、またある日には、貴女を蝶だと言ってみたり。表現とは、そんな積み重ねなのか? たぶん、違う気がする。
 前提として僕は天才じゃない。数撃ちゃ当たると思って量産しなくちゃならないとは思うけれども、その産むにあたって雑になってはいけない。
 目新しい材料を使えば、そりゃ、目新しくは映る。然し、そんなものはどうせすぐに飽きられる。それは単純に嫌だ。僕が好きになってきた人たちは、少なくともそうしたことはせずに、ぶっ飛ばせるものを作ってきたのだから。
 それに読書だけが手段じゃない。ある人は旅をし、ある人は身を粉にし、ある人は恋をし。ありとあらゆる体験が、絶望となり、希望となり、やがて糧となり、創作物を生みだす。
 いつか僕は貴女に「愛してる」って伝えたい。僕だけの、僕が貴女に伝える「愛してる」を。
 残念ながら、今の僕には力不足だ。こんなんじゃ伝わらない。どれだけ僕が貴女を「愛してる」かを。そもそも「どれだけ」なんて指標が適切なのだろうか。これも量ではなく、質の問題だろう。質、ねえ。こころ? まごころ?
 物事に勝負をつけるだけならジャンケンで終わる。棋士の羽生善治氏が言っていた。「勝ち負けには、もちろんこだわるんですが、大切なのは過程です。結果だけなら、ジャンケンでいい」と。
 僕の考えだと「愛してる」ことを「愛してる」って言うだけだと、そのジャンケンになってしまう。だからといって、何も仰々しい表現を使って大量の文字でもって目眩しのように浴びせても伝わらない。かえって嘘になる。
 でも、ヒトはヒトと「愛してる」ことを「愛してる」って言うだけで伝えられるほどの説得力を持つ人間関係を構築できる。小説の中ではできなくても。
 ただ、僕は小説でそれをやりたいのだ。どうしても。憧れのあの人に追い付き、追い越す為には。
 あの日、言ってしまった。あの人に。
「いつか、僕は、追い付きます。でも、追い付かれないように駆け抜けてください」
 返事はこうだ。
「この場所は高いぞ」
 太陽に喧嘩を売ってしまった。確かに高い。然し、ひまわりは空に触る。貴女の両手に支えられるから。
 And I am the son of the sun.
 僕の小説は貴女に届けばいい。貴女に向けられた、たった一篇の小説。それさえ出来ればいいのだ。
 だが、その貴女は、未だ姿を現さない。僕の存在を知らずに今夜も気持ち悪く眠っている。僕がどんなに「愛してる」と叫んでも起きてはくれない。
 足りないからだ。過ぎるからだ。匙加減ぴったりの言葉で表された小説じゃないから届かないのだ。
 迷悩しながら、僕は、生きます。 


「あの日」

 乾いた雑巾を絞るように、足りない頭をひねる。煙草で燻された胸が、痛む。嫌な過去を思い出した。僕に限り、生きるということは、呪いなのかもしれない。こうなったらお終い。諦めてこんな気持ちのまま、敢えて書き続けてみよう。
 つまらない僕の話をするからぜひ聞いてほしい。求道者に成れるほど、僕は人格が出来ていない。やっぱり、どうしても他人からの評価を気にしてしまうし、自分の物差しを作り使うのは、どうやったって難しい。何より、貴女に出逢ったあの日からでさえも、僕は蝶になれなかったことが証左である。
 毎日、飽きるほど夢を見る。そう幸せでない夢を。自分だけが過去に鎖で囚われ、周りはすべて進んでいくのだ。否、それは自分の意志だ。とどまろうとする意志。では、なにゆえ僕はとどまろうとするのか。過去の僕を救ってあげたい、今まではそんなふうに答えてきた気がする。
 今朝、初めて、夢に向かう今の僕の夢を見た。文学賞で箸にも棒にも掛からぬが、諦めずに歯を食いしばって書くのを止めない僕が出てくる夢。酷く貧乏で、酷く悩んでいた。けっして喜べる今ではないが、嘘偽りのない己の立ち位置である。ただ、応援してくれる貴女が居てくれた。それだけで至上の悦びではないか。
 そう。すべては、初期衝動。それに魅せられて僕は走り出した。そのときの感性がいつまでも残っている。技術や知恵を手に入れたとしても、これだけは曲げたくない。
 潜在意識がそれを忘れていない。このことが嬉しかった。目標としての夢と、眠るときの夢って、違う事象を表しているのに同じ言葉を使うってことは、何か深い意味があるのだろう。でも、フロイト先生は出てこなくていいよ。永遠に眠っていてくださいな。
 僕は、しがないインディペンデントの文士だ。最近はひたすら美文のことばかり考えている。百合の花束の香りでむせかえるような文章を。これでもかというくらい薫る、たった一文を探し求めながら。若しくは、甘い甘いチョコレートのように、食べ過ぎたら気持ち悪くなるような文章とでも言おうか。くどい味。でも、止められない。そうして、何回やっても「貴女」と「僕」と「夢」の物語が生まれる。貴い愛とでも言おうか。どんなに希少で煌びやかな宝石よりも、僕にとっては価値のある愛。その言葉を、貴女と共有したいのだ。
 けれども、現状、貴女は夢の中にしか居ない。だから当然、僕には夢が必要になる。夢だけが貴女と僕の架け橋なのだ。たった一度きり逢った貴女。貴女とのその一瞬でいて永遠になった思い出が、僕を生き延びさせてくれている。
 それから数年後、心身がこんなふうになって、初期衝動を思い出した僕は、貴女に何通も何通も便りを書いた。その度に、僕の「夢」を書いた。貴女からの返事は、未だひとつたりとも、無い。
 そりゃあ、欲を言えば返事は欲しい。でも、神社で神様に抱負を述べるように、自分の「夢」を伝えているだけだから、返ってこなくて当たり前。貴女は僕の女神様。
 ところで、何が「夢」かって? それは教えられない。「夢」は二人だけの世界。この世でたったひとり愛している貴女と僕だけのものだから、誰にも邪魔されたくない。もし、邪魔をするなら、僕はこのひ弱な体でも、刃を握りしめて戦うよ。
 実のところ、会いたい……、会いたい……。会えない。でも、夢でなら、いつでも僕らは会える。ひょっとしたら、今夜の夢でまたすぐに会えるかもしれない。ただ、そんな頻繁に会えなくたっていいんだ。強がりだとか、ありがたみの話ではなくて、この夢は純愛の一種。実ったときに会えればいい。例え、究極、それが、世界の終わりだったとしても。
 人々は同じ場所に集まって同じ林檎を見たとしても、「赤い」とか「青森産だろうか」とか「しゃりしゃりしてそう」とか、各々違う感想を抱くもの。同じものを見ているのに、同じものが見えていないのだ。それに引き換え貴女と僕は、遠くに居ても、空に浮かび流れ常に形を変えていく雲を見て、同じものが見える。貴女が初めて唄った歌がそう囁いている。貴女と僕しか知らない秘密。
 貴女と、ごく稀に、夢で会えたとき、それを再確認する。今度は貴女の夢を聞かせてください。


善き人が行くと言われる天国
きっと悦楽しか存在しない
そんな世界は退屈でしょう
だから僕は、もうしばらく、ここに居ます

近江マイコ

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