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コルクラボマンガ専科7期卒業展示会、始まったよ~!

みじんこ2点、みじんコレクターの方がご購入くださいました、ありがとうございます!

「問いの壁」ステートメント

 この問いをAI(Chat GPT)にしたところ、「~私は人工知能のChatGPTとして、自然言語処理や機械学習などの分野で広く知られ、使用されているため、100年後でも私の存在が有用であると期待されています」という回答が返ってきた。200年後は? 500年後は? 質問をつづけたところ、人工知能は1000年後も、人類にとって「役立つもの」であろうとしていた。

 強制収容所アウシュビッツから生還した心理学者ヴィクトール・E・フランクルは、ヒトは人生に「意味」を求める存在で、「意味」なくしてヒトは生きられないと言った。自分という存在に「意味」を見いだせれば、ヒトは、どんな過酷な状況でも生きる力が湧いてくるのだと。

 では、ヒトはどんな時に、自分に「意味」があると感じられるのだろう。
 私はそれを「役割がある時」だと考える。

 ヒトは社会というコミュニティの中で生きる。であるならば、社会に対して自分には役割があると感じられる時に、ヒトは自分の「意味」を見出せるのではないだろうか。ヒトにとって「役立つもの」は、多くの社会で同じ形に収まる。たとえば効率の良さ、誰でも使えること、一人ではできないことができるようになること。役に立つは、とても素晴らしいことだ。しかし同時に、世界が「役に立つ」で混ざり合うにつれ、人の暮らしはどこも同じような形に収束していないだろうか。人間の形は変わらない。だから、役に立つ形の種類もさほど多くない。

 ならば「意味がある」はどうだろう?

 ヒトにとって意味があるものは多様だ。「意味がある」は、ヒトがヒトであるための可能性を担保する。では、社会を集合的な生命体と捉えた時の、社会の意味とはなんだろう? その社会で生きる人それぞれがもつ「意味」の集合体は、社会の意味となりうるのか。

 100年後も続いてるであろう人類の歴史の中で、あなたが期待されていることは何か。その問いに私は、ヒトという存在の「意味」を見出す。ヒトは高尚なことだけに意味を見出すわけじゃない。ささやかでくだらないことに救われるヒトもいるのだ。

 本作は、個人の意味を通じて、社会の意味を描出しようという試みである。

 あなたがこの世界に存在する「意味」をもってこの会場を彩り、同時に、多様な「意味」で包まれた世界について、問い直して欲しい。

Twitterトレンド取りに行く計画も、たくさんの方にご参加いただいたみたいで、本当に感謝しています!オープニングしながらだったので、なかなかタイムラインが見られず、みなさんの応援に依存するみたいになってしまいましたが、こうして呼びかけを行って、「協力するよ!」「一緒にやろう!」とすぐに応えてくれる人たちがいる場というのは、とてもありがたいなぁと感じました。

雨の中、お忙しい中、遠方からお越しくださったみなさん、本当にありがとうございます!会期は4/3(月)までですので、お友達お誘いあわせの上、ぜひ会期中に遊びにきていただければと思います!

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