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板橋の神社で桜を撮っていたおじさんがいった「恐怖を超えるためにすること」の話

 獣医を辞めた後、家を出た。働いてないのに実家にいると、毎日怒られるのが目に見えていたからだ。住み始めたのは板橋のシェアハウス。女の子六人での暮らしだった。
 特にすることもなかったから、買ったばかりの自転車で家の周りをただひたすら走る。桜の季節で青い空と緑の風が気持ちよかった。なんとなく、途中で立ち止まって、高速道路や信号、木の幹の地図みたいな模様や割れた石の地面を写真に撮る。

 少し日が落ちてきたころ、小さな神社を見つけて立ち寄ることにした。数本の桜が赤い鳥居に彩りを添え、色が変わり始めた空に、カラスの声がいくつか重なる。見ると、近くで同じように写真を撮っているおじさんがいた。一眼のシャッター音は目立つ。持ち上げるだけで重そうな大型のカメラが、地元の小さな神社には異質に感じる。自分の持っているカメラが子ども用に思えてしまうほどだ。

「桜、いいよね。写真撮ってるの?」

 おじさんは私に気づいて声をかけてきた。白髪交じりの髪に目じりのしわ。五〇代後半くらいの見た目だったけど、すごく若々しさを感じる人だった。

「はい、友達がぼかして桜を撮ってたことがあって、そんな感じに撮れたらいいなって」
「いいね。今日は天気もいいから撮ってても気持ちいい」

 おじさんはフォトコンテストに出すために撮影しているのだと言った。好きなら一度出してみたらいい、と勧めてくれたが、私は「そこまではいい」と言って断る。写真を撮るのは好きだったが、プロカメラマンになるつもりはないし、そもそも露出とか被写界深度とか、そのあたりを勉強することにも興味はなかった。おじさんは目を細めてうなずき、「そうだよね、楽しいのが一番だよ」と言う。おじさんは四十八歳に初めて写真を撮り始め、今は六十二歳。「世界中を旅しながら写真を撮り続けたい」と言っていた。

 なんとなく、私がやりたいことの話になる。

「あ、えーと、絵本とか描きたいなって」
 そう言ったけれど、実際に毎日絵本を描いたり、話を考えているわけではなかった。

「そう、いいね。お話考えたりは好きなんだ?」
「あ、はい。でも好きなだけで」
「絵も描けるなんてすごいね」
「そんな上手なわけじゃないです。まだ全然。もともとは獣医をやっていて、それをまだ辞めたばかりで」

 獣医であったというのは、私にとって一つの救いだった。戻るつもりがなくても、免許があるのは確かで、やっていたことも事実。そして、多くの人が「元獣医」と言うとすごいと言ってくれる。それ以外の取柄は、見つからなかった。

「獣医はもうやらないの?」
「はい、一応そのつもりで。でも生活に困ったら戻るかもしれないですけど」

 おじさんは何度か黙ったままうなずいた。しばらく考えるような目つきをして、口を開く。

「これからね、何をやってもいいんだけど、もしも自分がこれをやりたい!って思ったことがあれば、絶対に自分を下げないことだよ。『そんなにすごくない』『全然できない』そういうのは言葉にする必要がないことなんだ。そういう言葉を使っている限り、絶対に『すごい』『できる』にはならないんだよ」

 おじさんはカバンから写真のアルバムを見せてくれた。そこには見たこともない地球の風景が刻まれていた。海岸に立つ巨大な岩石群。苔むした廃墟の町。全部おじさんが旅先で撮ったものだ。

「始めた時はね、怖かったよ。四十八歳から始めて、かっこいい写真なんて撮れないんじゃないかって。目だってさ、若い頃より見えにくくなってるわけだし。でもね、ある時『自分はダメだ』って言うのをやめたんだ。それから自分自身にも自分以外の人にも『自分は旅の写真を撮れます』って言うように変えたんだよね。最初はもちろん怖かったよ。本当に仕事として依頼してくれた人もいてね、友達だったんだけど。できないのに迷惑かけたらどうしようって、心臓がずっとすごい音立ててさ」

 おじさんはアルバムの中から一枚の写真を取り出した。飛び立つ瞬間の鳥をとらえたもので、羽根の一枚一枚が緊張感をもって踊るようだった。

「初めて行きたい場所に行って撮った写真だよ。この一枚のために、三日間同じ場所にいたよ」

 おじさんはその写真を私に渡すと言った。

「恐怖を超えるんだよ、自分にはできるって信じるんだ。そしたら絶対できる」

 おじさんはもう一度言う。

「絶対できるよ、どんな時も、自分が最初にそう言うんだ」

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