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モスクワの三ツ星ホテルで会った女性の「欲しい物にちゃんと手を伸ばすこと」という話

 二月のモスクワは、白かった。見渡すほど広い道路の脇に、幅のある巨大すぎる建物が並んでいる。ガリバー旅行記の世界に入り込んで、私だけ小さくなったみたいだ。写真を撮るために手袋を取った手が痛む。気温はマイナス二十五度。真っ青な空をのぞいて、全体的に白く感じる景色。

 研修旅行で参加したロシアのツアー。ソチオリンピックを踏まえた招待旅行のため、費用は破格だった。それでも貯金が十万円を切ろうとしていた時だったので、一度は断る。新しい仕事が始まったばかりで、少しでもお金を稼がないと、そう思っていた。でも、その日のうちに考え直して「やっぱり行きたい」と連絡を入れる。だって、本当は行きたいんでしょう?もし、一ヶ月以内に死ぬことが分かっていたら、迷わず行くと選択できるでしょう?
 声をかけてくれた人が尽力してくれ、ツアーに参加できることになった。

 オープンしたばかりの三ツ星ホテルが、一人に一部屋割り当てられていた。部屋には整列した色とりどりのマカロンと、私の名前が書かれたカード。帰ったばかりの服のまま、大きすぎるベッドに両手足を広げて飛び乗る。ベッドは両手を広げてもまだ余り、シーツは滑らかなプリンの表面みたいにツヤツヤだった。私は身体を伸ばせるだけ伸ばして、意味のない声をあげる。だって感動は、いつだって全身で味わうものじゃない?

 朝食はビュッフェ形式だった。封が空いていないジャムの小瓶が、ピラミッドみたいに積みあがっていて、全種類を持って帰りたいような気持ちになる。今までに食べたことないたくさんのハムが並び、サラダが並び、デザートが並び。神様から祝福されてるみたいに光いっぱいのレストランで、大きな白い皿を抱えて私は目を輝かせていた。

 全部食べたくって、少しずつ、お皿いっぱいに盛り上げて席につく。コーヒーのいい匂いがする。窓の外には細かい雪が舞っていて、雪の白さが点描画のように微細な色の集合体を作っていた。

 ジャムをいくつかもらって帰ろうか。私がそう考えながら、ハムをほおばっていると、目の前に女性が座る。笑顔を向けられて、私も会釈して返す。

 一目で質が良いと分かるスーツ。大きめのイヤリング。光る茶色の髪がゆるやかに彼女の顔を包む。大統領夫人だと言われたら信じそうな上品な振る舞い。数切れのハムにライ麦のパン。それにコーヒーをテーブルに置く。食べ物が山のように重なった私のお皿。飲み物は、コーヒーとアップルティーとオレンジジュース。起き抜けのぱさついた髪。毛玉だらけの白いセーター。

 私は急に恥ずかしくなってきた。彼女から感じられる「余裕」。私の一時的な欲望の渦。本当に全部食べたかったのかなぁ。そんなにお腹すいてるわけでもないのに。さっきまで浮かれていた気持ちが消し飛び、情けない気持ちが充ちる。そうだ。本当の自分は、こんなに素晴らしいホテルに泊まれるほどの人間じゃない。遅い時間にスーパーに行って、半額シールが貼られている食べ物を買い込んで冷凍してとっておくタイプの人間だ。私は、このホテルにはふさわしくない。

「そっちのハムは美味しい?」

 いつの間にか下を向いていた私は、彼女の声で顔を上げる。彼女はもう一度、きれいな英語で私に言う。

「はい、すごく」

 彼女は、おもちゃのお面にありそうな、目いっぱいの笑顔を私に向け、

「私も、もう少しもらってくるわ」

 と言って席を立つ。戻ってきた彼女は、両手に一つずつお皿を持っていた。お皿の上にはケーキやゼリー、デザートがいっぱいだった。

「私、ケーキ大好きなの!ねえ、一緒に食べない?」

 彼女はお皿を私の近くに置く。私はうなずいて、金箔の乗ったチョコレートケーキをフォークで取る。チョコレートケーキはそんなに好きじゃないのだが、今まで食べたことがないものを食べるのが好きで、このケーキが一番、味の予測がつかないと思った。

「あ、それ、私が一番食べたかったやつだわ!」

 彼女はそう言い、私はすぐに謝る。ケーキが自己嫌悪の象徴のように見えた。もっと無難な、彼女が選ばなそうなものから取るべきだった。せっかく声をかけてくれたのに、私は自分の欲ばかり優先している。

「いいのよ、いくらでも取って来ればいいんだから」

 私の気持ちを察したのか、彼女はそう言う。それから小皿とフォークとナイフを持ってきて、私の前に置く。

「あなたは、すごくかっこよくて、こういう素敵なホテルにふさわしい素晴らしい人で。そういうのをうらやましく思います」

 私がそう言うと、彼女はケーキを二つ、取り分けた。

「ふさわしいって何かしら。私ね、ふさわしくなるために、たくさんの物を後回しにしてきた気がするわ。いいホテルに泊まるためにいい服を着てないと。いい服を着るために、お金を稼がないと。たくさんお金を稼げる職業につくために、人より勉強しないと。
 したいことに条件をつけて、あれができてから、これができてから。そう考えているうちに、条件はどんどん増えて、したいことは遠ざかるばかりだったわ。ファッションセンスを身に着けて、きれいにお化粧して、ヘアスタイルはこれが流行りで、テーブルマナーを覚えて」

 彼女はナイフとフォークで小さなケーキを細かく切り、口に運ぶ。流れるようなしぐさが上品で、ケーキの中央にフォークを突き刺して食べる私とは大違いだ。

「小さい頃ね、両親とホテルで食事をしたことがあったの。うちは泊まったわけじゃなくて、親せきのおじさんの待ち合わせで、食事だけ。今まで食べたことないような美しい料理が出てきて、泊まっている人たちが輝いて見えて、こんな風になりたいって思ったの。彼らみたいに、世界中のゴージャスなホテルに泊まれるような仕事がしたい、って」

「素敵。その夢を叶えたんですね」

 海外だとプライベートな質問は非常にデリケートなことがある。私は彼女の詳しい職業は聞かずに、そう返す。

「叶えたつもりだったけど、それ以上にたくさんのものを諦めたわ。いっぱい格好つけて。だって、私、本当は、ぬいぐるみが大好きだし、家ではアニメのキャラクターがついたパジャマで寝てるのよ」

 彼女はケーキの他にゼリーのグラスを取り、スプーンで口に運ぶ。

「格好つけて格好つけて、そうやって生きているうちに、周りも私のことをそう思うでしょう? その期待に応えているうちに、私自身も、自分が本当はどうしたいのか、よく分からなくなっちゃったの。だから、あなたが食べ物をいっぱい持ってきたことに、うらやましく感じちゃったわ。あなたは本当にそれが食べたいんだって、見ててもすぐ分かったもの」

 私は彼女をもう一度見る。知的で美しくて上品で、すごく格好よくて素晴らしい女性だけど、彼女のように生きたいかと言われたら、それはNOだ。私は、私の生きたいように生きたい。

「自分の人生なんだから。欲張れるだけ欲張っていいじゃない。きれいな服を着てないとホテルにも入れないなんて、滑稽だわ」

 彼女の前のデザートが次々になくなっていくのを見ながら、私は、こうして彼女と話せる時間が一番の幸福だ、と感じた。

「でも、さすがに取りすぎました。私は食べたことない物は全部食べたいけど、お腹いっぱいになったら、味なんか全然わかんなくなっちゃいますし、食べること自体が嫌になっちゃう」

 彼女はそれを聞いて、声を上げて笑う。

「そうね。自分が本当にしたいことを、一番よく味わえる程度を知るといいのかも。だって、このホテルだって二週間も泊まったら、きっと飽きるわ」

 私は、自分の持ってきたハムの皿を彼女の近くに寄せる。それと、先ほどのチョコレートケーキを半分にして、彼女の皿に分けた。

「ほんとに。自分が一番幸福になれる限度を知ること。そして、多すぎる分は誰かに」

 彼女はThank youと言ってチョコレートケーキをフォークで取る。

「そう、でも欲しい物にちゃんと手を伸ばすこと」

 彼女は嬉しそうに大きな口を開けてケーキを飲みこみながら、私にウインクして見せた。

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