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5月の水曜日「衣替え」

 昨日は雨が降り少し寒かった。ここ最近の陽気を思えば、思わず季節外れの寒さ、と感じてしまったけれど、そもそもここ最近の陽気の方が季節外れの暑さとも言えたわけで、こうなると着る服の選択に些か困ってしまう。とはいっても、仕事に出掛けて行くときは最近流行りというか、わりと定着してきたクールビズの流れというか、何か特別な事情でもない限り、いわゆるセットアップのスーツを着ることはなく、それぞれ別のシャツとパンツにジャケットとという一応のフォーマルさは残しつつも、ノーネクタイで若干ラフな格好で行くことが多い。昨日みたいに天気予報の言う三月下旬並みのような気温のときは、そもそもジャケットは着ずにシャツの上に無地のマウンテンパーカーを羽織って行く。ジャケットは肩周りが窮屈に感じてしまい、一日の終わりには肩が凝ってしまうのであまり着たくないし、職場に着けば、どのみちジャケットなんか脱いでしまうことの方が多いからだ。

 妻がアパレル系の職種に勤めているので、私服というか休日の衣服は妻のお下がりをもらうことも多い。彼女が仕事でオーバーサイズで着ていた男性物を僕がもらう。季節を先取りしていたものをシーズンの切り替えに伴い貰うので、実際の季節にも合う。もともとファッションにはそれほど固執してないというか、まぁ自分でも買うには買うけれど、若いときほどはこだわらなくなった。ちょうど音楽活動を緩やかにフェイドアウトしていったころからだろうか。バンドをやっていたときも別にファッショナブルだったわけではないけれど、というか過度にファッショナブルになり過ぎないように、でもダサ過ぎないように、みたいなことを考えていたと思う。自分がやっているのはあくまで音楽であって、チャラチャラと着飾るのも違うというか、音楽以外にかまけているのもそれはそれでダサいよな、と今にして思えばそれもそれでなんだかダサいような気もするけれど、若気の至りというか自分の自信の無さを何かを否定することで補っていたのだと思う。若いときには多かれ少なかれ、誰しもがあることだとは思うけれど、今となってはやっぱり少し恥ずかしいし、こだわりというか、斜に構えた態度も改めるべき年齢だとも思う。何よりもう、人の親なのだ。

 何事にも拘らない、というのは完全に受け売りのモットーで、何事にも拘らないということはそのモットーにも拘らないから、ときどきは拘るのだ、といとこまで含めて受け売りなのだけれど、まぁそんな感じに拘ったり拘らなかったりしている。ただ一つ言えるのは、そういう気構えでいれば、つまらないこと、くだらないことは良くも悪くも流せるようになる。スルースキルというやつだろうか。いちいち感情的になるほどの関心ごとではない、といった感じに。とまぁ、ここまで含めて受け売りなのだけれど。

 日曜日の文フリ東京には、自分でSUZURIで作った『文学は死んだ』Tシャツを着て行ったのだけれど、捨てきれぬ羞恥心から上からネルシャツを羽織って行った。元ネタがカート・コバーンなので合ってなくはない、といった感じだったのだけれど、帰宅すると妻に開口一番「あんたそれ、冬物だよ。やめてよ恥ずかしい」と言われてしまった。確かに気温も高かったので暑いな、と思っていたのだけれど、冬物だったとは。本当にこういうのには疎くて、でも拘らないのと無頓着なのは違うよな、と思う今日この頃です。

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