天才不要論ー語学ー

 天才や偉人の逸話が、教育、道徳、人生問題に際して援用、引用されることは多くあります。

私たちは、その逸話一つ一つに対して、天才との距離を長短を感じて、励まされたり、絶望したりしています。しかし、それは本当に必要なことなのでしょうか?

例えば、語学について。イスラーム研究の泰斗で知られる井筒俊彦(1914〜1993)。西洋哲学と東洋哲学を縦横に考察した主著『意識と本質』、イスラームの経典『コーラン』の訳は、それぞれ岩波文庫の目録に加えられています。

そんな彼ですが、イスラーム研究という事実からも察せますが、アラビア語、古代ギリシア語、ロシア語など、彼が習熟した語学は常人には考えられぬ数です。

 また、井筒俊彦はサンスクリット語の文献を1ヶ月で暗記してしまったようです。

岩波新書で出ている千野栄一著『外国語学習法』にも、著者自身が述懐するように、「語学が絶望的におできになる」先生が幾つか登場します。

 これらの事実から、私たちは何を学び取るべきでしょうか?井筒俊彦のようにあらゆる外国語に手をつけ、古代語の文献を一冊暗記しないと話にならない。そんな風に考えるべきでしょうか?

 いえ、違います。私たちにはそのような芸当はできませんし、彼らはそれが好きだから軽々と語学を習得してしまうのです。ここを履き違えてはいけません。

 では、我々はこのような好事家の逸話から一体何を学び取ればよいのでしょうか?それは事実に他なりません。加えるならば、自分の世界を拡げるための。

 世間には、数カ国語を特定の状況下において割合発音よく話せる人を、語学に堪能だとか、一生涯に習得できる外国語は一つしかない、とかいう臆見が跋扈しております。

 このような意見は百害あって一利なしです。前者は、実際語学の習得というものが何たるかを知らないという無知の例であり、後者は天才と凡人の狭間にいる小人の一例に過ぎません。それはかえって、ここでは、語学の世界についての知識を狭めてしまうかもしれません。

 医学研究者がある特定の病気の症例を調べるには、無数の患者の症例を知る必要があり、研究を始めるには、題目に関するあらゆる文献を渉猟しなければなりません。つまり私たちが、あることについて知るには、一つの意見、一冊の書物では不足しているのです。

 天才の語学習得の逸話から、巷に広まる語学に関する憶説まで触れました。私は、ここに一つの強制を私たちに課そうとは考えません。ただ、それぞれの話や意見を自身の世界を拡げるための知識と捉えるほうがいいのではないか、ということです。

 自分の心を悩ませないただの知識。そのように捉えることができれば、語学の勉強方法について悩んで調べたり、迷ったり、絶望したりすることもなくなるかもしれません。

 



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