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人間にとって"ふるさと"とは何?

小学4年生の時、私のクラスは学芸会で『ふるさと』の劇をした。野口英世の少年時代を劇にしたものだ。私は主役の清作(野口英世の幼名)ではなく、清作の友人の代吉(大吉?)だった。
野口英世にとっては、会津磐梯山と猪苗代湖がふるさとの象徴だった。

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷

如何にいます父母 恙なしや友がき
雨に風につけても 思いいずる故郷

こころざしをはたして いつの日にか帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷

五木ひろしにも『ふるさと』と言う同名の歌がある。

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
洗いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷(ふるさと)が
日暮れりゃ 恋しくなるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく
あー誰にも 故郷がある
故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた
あー誰にも 故郷がある
故郷がある

また、石川啄木は歌集『一握の砂』で謳っている。

ふるさとの山に向ひて言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな

ふるさとを思う時、私は卒業した能登部小学校校歌を思い出す(能登部小学校は今は平成の大合併に応じて、鹿西小学校になっている)。

[能登部小学校校歌]

姿優しき 眉丈山(びじょうざん)
流れは清き 長曽川(ながそがわ)
鹿西野々(ろくせいのの)の ただ中に
歴史も古き 能登部校(のとべこう)

遠つ御代(みよ)より 伝え来て
今に栄ゆる 織り布は
生業(なりわい)励む 里人の
慣わし永遠(とわ)に 伝うかな

学びの道は 世を理する
すべての業(わざ)の 基(もとい)なり
我らもここに 勤めつつ
やがて尽くさん 国のため

清作の会津磐梯山、啄木の岩木山は、私にとっての眉丈山であり、清作の猪苗代湖は、私にとっての長曽川だった。
ふるさとの山川は忘れがたい。私の原点である。

私には"能登"というふるさとがある。私は、ふるさと能登から金沢へ、そして東京へと、ふるさとの思いを持って、花の都に出て行った。そして、古稀を過ぎた今、ふるさとへの思いは募り、ふるさとへ帰り、ふるさと能登のために何かをしたいと思う。

家族のことを考える。
妻は、生まれてから私と結婚するまではずっと東京青山。子どもたちは、私の転勤で東京〜神戸〜東京〜札幌〜東京と転々として、田舎というふるさとはない。
そんなことを思うと、私は、「私にはふるさと能登がある」と、しみじみとふるさとがある幸せを感じる。

ふるさとを思う時、それは幼い時に遊んだ山川なのだが、その山川の底辺には、人の人情がある。その人情が忘れることができずにふるさとを懐かしく思うのだろう。
さすれば、妻や子どもたちにとっても、私のふるさと能登を思うと同様の人の人情を感じる何かを持っているのだろう。
人にはそれぞれの形のふるさとがあるのだ。

副団長は、中国哈爾濱(ハルビン)の出身だ。縁あって日本に来て、日本が大好きになって、日本にお世話になっているご恩返しで、私のふるさと能登の復興応援をしたいと言う。
これも副団長のふるさとの形なんだろう。

"ふるさと"とは心のよりどころだ。
ふるさとがあると、ふるさとを持つと、人間は強くなる。優しくなる。

心にふるさとを持って、人生を生きていきたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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