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これから29年、整理整頓と具体的行動を繰り返す

大学を卒業し銀行に入社した。44才6ヶ月で銀行を中途退職した。山坂はあったが、順風満帆の半生だった。
ありがたいことに、私の前には登るべき階段が示されていた。そのまま、階段を昇っていけばいいものを、「あと半分の人生、このままの敷かれた道を歩いていくには面白くない。後悔はしたくない」と何を思ったのか、何の当てもないのに、昇るべき階段を降りて、当てもない道を歩いていこうと思った。
その時、ソクラテスの箴言、"汝自身を知れ"を分かっていたならば、決してそうはしなかっただろうに。しかし、今、私は全く後悔はしていない。

"若気の至り"か"匹夫の勇"か、敷かれた道を外れたら何も頼るものはない。生簀の鯛は、大海ではそれまでのように泳ぐことはできない。冬の日本海は、冷たく、荒れていた。
汝自身を知らないということは恐ろしいことだ。44歳6ヶ月、そこから七転八倒、紆余曲折の後半生が始まった。

人生、どうなるかは神のみぞ知ることだが、一般的には、サラリーマンから独立する時は、人はそれなりの勝算があってのことだろう。
それが当たり前であろうに、勢いだけで人生を生きていこう、思いだけで生きていくことができると思うところは、"甘ちゃん"と言われても返す言葉がない。
前半人生、自分の実力で生きてきたわけではない。それを勘違いして自分の実力だと思い違いをしていた。自分を過信するということは恐ろしいことだ。だから、一人前になるために、天は、苦労という宝物を私に与えてくださったのだ。
松下幸之助さんは、「順境よし、逆境なおよし」と仰る。一方、稲盛和夫さんは「苦は磨き砂」と仰る。そんな心境になることなど、凡人の私には別世界の話だった。

それから、早いもので26年が経った。馬齢を重ねた。あっという間に60歳の還暦も70歳の古稀も過ぎて、今、71歳と半年になった。押し通されぬ高齢者だ。100歳の大台まで30年を切った。

銀行を中途退職した時は、"あと半分の人生"と思って、清水の舞台から飛び降りた。そして、それからずっと、"あと半分の人生"の思いを持って生きてきた。妻には、「いつになったら後半人生が始まるのか」と言われ続けてきた。

生きとし生けるものすべて、生命には限りがある。あと半分の人生と思って生きることは、それがいつになってもあと半分の生命があると思うのであれば、それは生命は無限だと言うことと同じだ。能天気な生き方であり、決して前向きな生き方ではない。そこには人間の成長はない。

限りある人生だからこそ、与えられた生命を、決して無駄にすることなく、汝自身を知って、足らずを人の力を借りて、天から与えられた使命を果たそうと思うのだ。終わりのない人生と思って生きることは、生命が尽きる時は、何も人生で成すことはできなかったと思うことだろう。大鏡のお爺さんたちのそれぞれの人生を考えたら、その人生は何も成すことができなかった人生だったのではないか。

古稀を過ぎて71歳になって、"ふるさと能登"が大地震に見舞われた。「思いをふるさとに致せ」という天の声があった。原点に立ち戻れということだ。
71年の人生、好き勝手をして生きてきた。お人好しの人生だったから、たくさんの人たちに助けていただかなければ生きてくることができなかった。
やっと、"汝自身を知れ"というソクラテスの箴言が身を以て知る歳になった。あと半分の人生とは言わない。あと半分の人生では、何事も成すことはできない。

"背水の陣"という諺がある。

もうこれしかない。
背水の陣を敷いて、生命を賭けて戦う。
有限の人生を生きる。
Time is money.

おかげさまで、21世紀は人生100年時代だ。あと29年は現役で働こう。それでも29年は長い。

きっと能登の完全復興は10年では終わらないだろう。20年でもどうだろうか。だから、29年でも長過ぎることはない。
まずは10年、それから20年と時間を区切ろう。有限な生命があって、事は成すことができるのだ。

[OUEN Japan]のミッションを整理整頓した。
[OUEN Japan]にはいろいろなミッションがある。そのすべてを果たしたいと思う。

ブレることのない最上位のミッション[能登の復興応援]を高く掲げて、その旗の下に集ってきた人たちと、全てのミッションを果たすべく、私は生命を賭ける。
最上位のミッションは、その下位のミッションを果たすことでなければ果たすことはできない。皆、有機的な関係にある。

整理整頓する→具体的に動く→それを踏まえて、また整理整頓する→また、それを踏まえて動く

現役人生の29年間、その繰り返しをし続けるのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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