見出し画像

群馬銀杏会に出る→私は運がいい

昨日(7月6日(土))、ホテルメトロポリタン高崎にて、「令和6年 群馬銀杏会 定例総会・懇親会」が開催され、出席した。

私は、東大同窓会地方支部の幹事を、出身の石川赤門会のほか、群馬銀杏会でも仰せつかっている。

石川県は私の出身県であり、当時、東京大学同窓会連合会の顧問だった故石原信雄さんに、「石川県でも地域同窓会を立ち上げたい。ついては小林君が発起人になってほしい」とお願いされ、石川赤門会は立ち上がった。

それに対して、群馬県は私とは縁もゆかりもない県だが、石原信雄さんは群馬県太田市のご出身であり、石原さんに、「是非、群馬銀杏会の幹事を受けてほしい」と、石川県の発起人の時と同様にお願いされ、群馬銀杏会の幹事をお引き受けした。
ところで、私の幹事の役割と言ったら、懇親会の最後(中締めの前)に、校歌のない東大で、校歌に匹敵する応援歌"ただ一つ"のリードをすることだけだ。
だから、毎年7月の第一土曜日にホテルメトロポリタン高崎で開催される群馬銀杏会定例総会・懇親会に出席するため、この日は他の用事を入れることはできないの(来年の定例総会・懇親会は、7月5日(土)であり、私はすぐスケジュールに入れた)。

本日は、七朋会(国立七大学応援団同窓会)の幹事会が私の外苑前の事務所で行われたが、そんなことで私は欠席せざるを得なかった。
他の幹事にお任せして、私の事務所を使ってもらったのだ。

勿論、群馬銀杏会の会員は群馬県出身の東大OB・OGのほか、群馬県出身ではなくても群馬県に勤めていた人が会員だ。群馬県に何らか関わっている人が会員だ。私のように、群馬県に縁がない人は私一人ではないだろうか。

講演会の講師は、日本製鉄会長や日本商工会議所会頭を歴任された三村明夫さんだった。

[三村明夫さんの略歴]

昭和15年、前橋市生まれ、83歳。
群馬県立前橋高校卒
東京大学経済学部卒
富士製鐵入社
ハーバード・ビジネススクール修了(MBA)
新日本製鉄社長
日本経済団体連合会副会長
新日本製鉄会長
日本政策投資銀行取締役
日清製粉グループ本社取締役
東京海上ホールディングス取締役
新日鉄住金取締役相談役
日本・東京商工会議所会頭
新日鉄住金相談役名誉会長
日本銀行参与
日本郵政取締役
新日鉄住金社友名誉会長
日本製鉄社友名誉会長
日本・東京商工会議所名誉会頭

4月24日に人口戦略会議から『地方自治体「持続可能性」分析レポート』が公表されたが、この会議の議長もされている。

後半のお話しは、人口戦略会議の分析レポートを中心とした内容だった。

講演の演題は、[2024年を日本再生の年に]〜失われた30年から復活し、新たな時代を切り開く年に〜

私は能登の創再生の応援で、中能登地域を人口減少社会における過疎地のモデル自治体としたい、その応援団長になりたいと思っている。
その観点からも、三村さんの講演は実に刺激的な内容だった。

懇親会になって、三村さんにご挨拶をした。何度か同窓会で名刺を交換させていただいているが、私を覚えていらっしゃらないのではと思いきや、やはり超一流の人は違う。しっかり覚えてくださっていらした。

私は三村さんに、
「能登の応援団長になりたいと思って、3月から毎月、中能登町を訪問しています。
まずは、中能登町に加えて、七尾市や羽咋市を含めた"中能登地域の地方創再生にチャレンジ"したい、そして、"中能登地域が過疎地のモデル自治体"になる応援をしたいと思っています。
また、人口戦略会議の[令和6年・地方自治体「持続可能性」分析レポート]も読ませていただきました」とお話したところ、三村さんから、「住民が人口減少を"自分ごと"として、50年先の自分たちが住んでいる市町村を考えてほしいと思う。"孫やひ孫の時代を見据える長期的視点を持って"ほしいと思う。それであれば先は暗くはない。
小林君は、そのように皆んなが考えるようになる"仕掛け作り"を考えて実行してほしい。期待しています」と熱く激励された。嬉しかった。頑張ろうと思った。

テーブルは年代順。私が座ったテーブルは60代〜70代前半のOBの皆さんだった。

隣に座った伊藤嘉道さんは、私が4年の時の1年。国鉄に入社され、国鉄民営化でJR東日本へ。
現在はJR全社が株主の(株)交通新聞社(本社は千代田区神田駿河台)社長だ。

https://www.kotsu.co.jp/

私が毎月能登に行っていることをお話したところ、「いろいろ応援できることがあるかもしれない」と。ありがたい。
近々、副団長と訪問しようと思う。

伊藤さんも群馬県出身ではなく、現在は東京、それも東京大学のそばの文京区西片にお住みだ。この同窓会のために新幹線でいらした。
能登の観光開発には力強い助っ人だ。そのような人がよりにもよって私の隣の席にお座りになった。
私は運がいい。

柳生家の家訓には、"大才は袖振り合う縁をも生かす"とあるが、私もその大才を目指したいものだ。

懇親会の半ばにビンゴがあり、私はまたまたビンゴに当たった(ここのところ、ずっとビンゴに当たっている)。運がいい。
景品は東大グッズ、淡青(東大のスクールカラー)の手拭いセットだ。野球の応援では、この淡青の手拭いを振りながら応援歌を歌う。私は野球の応援グッズはいろいろ持っているが、この手拭いは持っていなかった。ラッキー!!。私は運がいい。

そんな幸運も束の間、その東大グッズを、懇親会が終わった後、クラスメイトだった同期とホテルの2階にあったスターバックスにお茶しに行って、そこで置き忘れてきてしまったのだ。それを新幹線の車中で気がついた。
何万円の高価なものではないが、これは私にとっては縁起物なのだと思ったら、「どうでもいいや。捨てておこう」とは諦めきれない。運を捨てるようなものだ。
新幹線からスマホでスタバに連絡したところ、電話口に出た女性が「ありました」と。私にはその声が女神様の声に聞こえた。着払いで送ってもらうことにした。

いつも思う。「私は運がいい」と。失くしてもすぐに出てくる、この運のよさ。
昨日は、実に運がいいことが重なった一日だった。

松下幸之助さんもそんなことを仰っている。

私が愕然とした時、幸之助翁は

11年間松下さんに接した中で、最も強く心に残るのが昭和45年10月18日の出来事です。

その前日、私はアメリカから一時帰国して京都でささやかな結婚式を挙げました。披露宴の直後に聞こえてきたラジオのトップニュースに私は愕然としました。

「カラーテレビの二重価格問題を理由に、全国地域婦人団体連絡協議会が、松下電器の全商品のボイコットを宣言した」
と言うではありませんか。松下電器にとって一大事が起こったのです。

翌朝は真々庵(しんしんあん)で恒例の真修会が開かれ、私は妻を伴って挨拶に伺うことになっていました。不謹慎な言い方ですが、松下さんがこの事態に臨んでどういう表情をして何を話されるのか興味津々でした。

ところがどうでしょう、四畳半の茶室で私と妻を前にした松下さんの表情は、いつもと変わらず穏やかなのです。

そして次のようにおっしゃいました。
「君な、婦人団体の会長や副会長が言うてると思ったら、商売の基本も分かっていないと腹が立つわな。でも、違うで。あれは神様が、あの人たちの口を借りて僕や松下電器に注意してくれてはるんや。神様が言うてくれはると思ったら、腹立てるわけにはいかんわな。僕もよう考えてみるわ」

私は身震いするほどの感動を覚えました。松下電器だけをやり玉に挙げたボイコット宣言に、怒りが込み上げても不思議ではないでしょう。それが一夜にしてこのような心境に達しておられたのです。

そして、これも経営の神様たる所以なのでしょうが、一年後にはナショナル製品の市場占有率をボイコット宣言前の数字を上回るまでに回復させているのです。

なぜ「謙虚・素直」なのか

松下さんの包容力や指導力、時代を見通す先見力などはどのようにして培われたのでしょうか。

よく知られるように松下さんは豊かな家庭に生まれながら、父親が米相場に失敗したことにより、9歳にしてただ1人汽車に乗って郷里の和歌山から大阪に丁稚奉公(でっちぼうこう)に出るのです。
時代が違うとはいえ、幼い頃から想像を絶する厳しい環境に身を置かれました。しかし、誠実に精いっぱい働く姿が奉公先のご主人や奥さまに認められ、大変可愛がられました。
生涯を貫いた何事にも誠実で懸命に打ち込む習性は、その頃身につけられたものに違いありません。

先見性という点では、松下さんが「これからは電気の時代だ」と直感したのは、自転車店で丁稚奉公をしていた15歳の折でした。大阪で路面電車が走るのを見てピンときたといいますから、驚く他ありません。松下さんは6年間育ててもらった奉公先を飛び出し、大阪電灯への入社を目指します。
しかし、すぐに採用というわけにはいかないことから、一時セメント工場の臨時工として働くことになります。勤め帰りに乗る小蒸気船から海に転落するという、人生観を変える出来事が起きたのはその頃です。

溺れる寸前を引き返してきた船に助けられるのですが、その時のことを松下さんは後に「これが夏だったからよかった。冬だったら到底助からなかっただろう。僕はつくづく運のいい人間だ」と述懐しておられます。

ご自身の運の強さを確信するとともに、人間は生かされている存在であると実感されたのでしょう。何があろうと周囲の状況を怨むことなく、最後まで素直に謙虚に生きようとされた原点が、このエピソードからは窺えます。

松下さんの人生には、敗戦による壊滅的打撃や、GHQによる公職追放、先述の婦人団体によるボイコット運動等々実に様々な試練が降りかかってきました。自分では確信を持って挑戦しながら、失敗に終わった経験も少なくなかったはずです。私が入社した年にも大型コンピュータ事業からの撤退が決断され、同期入社の理工系社員はいたく失望したものです。
松下さんはそういう失敗や挫折の中でも常に将来を見据えて新たな手を打とうと懸命でした。

多くの社員やお客さまの声に謙虚に耳を傾ける中で、真のニーズを掴む努力を怠らなかったのはそのためでもあるのです。幼少期に味わった苦労や、そこで得た知恵が試練を乗り越える力となったことも、また確かでしょう。

私も運がいい。
これからの能登の創再生の応援はきっといいこと尽くめになることだろう。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?