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七朋会モードに突入する

12月2日(土)の七朋会(於いて、東大駒場生協食堂)まで2ヶ月を切った。4年ぶりの開催になる。

各大学の幹事の皆さんには、15名以上の参加者ノルマをお願いしている。
参加者は首都圏在住のOB・OGが中心になるだろうが、北は北海道から南は九州まで、『応援の心』を持ったおじさんやおばさんたちが集まってきてくれると思う。
そして、現役も歓迎しよう。応援をこよなく愛する人たちにも声掛けして、参加していただこうと思う。

1大学15名として、7大学で105名になる。100〜120名にはなるのではないだろうか。

七朋会は、旧帝国大学(北大、東北大、東大、名大、京大、阪大、九大)の7大学の応援団(部)のOB・OGたちの親睦会だ。
学歌・学生歌・応援歌のほか、旧制寮歌を、バカの一つ覚えのように高歌放吟する2時間半だ。

各大学応援団は、北大以外に旧制高校とのつながりはないのだが、その心意気を持って人生を生きていこうとする老壮青の男女の集まりだ。

七朋会の起こりは、私たち昭和50年3月に卒団(部)した同期の飲み会からだ。
元々は東北大の木島さんが言い出しっぺではなかったか。応援団幹部の時、「卒業したら七大学のOB・OGの集まる会をやりたいものだ。その名を『七朋会』にしよう」と言うことだったように思う。

しかし、若い時はなかなか皆んなが集まる機会はなかった。そして、『七朋会』は話だけで終わるかと思われた。
しかし、五十路になって、木島さんと京大の松井さんと私が何度か東京で飲む機会があって、「30年前に話していた『七朋会』を現実にしよう」ということになり、松井さんがその旗振り役になったのだ。

今から20年近く前のことだ。12月に、北大と東北大と京大と東大の4大学の同期が、表参道の古いビルの屋上で集まって歓談したのが最初だ。
勿論、都会の真ん中だ。周りのこともあるし高歌放吟というわけにはいかない。また、歌う雰囲気でもなかった。
そんななかで、誰彼となく、「次は全大学の同期に声掛けしよう」ということになった。

そして、その同期会が後輩たちも呼ぼう、先輩たちにも声を掛けようということで、現在の『七朋会』になったのだ。
会場は新宿だったり、神保町の学士会館だったりしたが、落ち着くところ、東大駒場の生協食堂になり、コロナ禍になるまで、毎年11月の最終土曜日に東大駒場生協食堂で開催している。

七朋会での高歌放吟で、皆んなは、それだけで青春に回帰するのだろう。
50〜60代のおじさんたちは、第二の人生を考えざるを得ない年代だ。下り坂の人生と思う人もいる。
私たち同期のように古稀を過ぎると、悠々自適と言葉はいいが、残りの人生を思う時、ともすれば、鬱々とした心持ちになる人もいることだろう。しかし、人生はこれからだ。上り坂の人生を生きるのだ。

私は古稀で生前葬&出陣式で生まれ変わった。区切りをつけたことで、「これからが上り坂の人生だ。白秋とは実りの秋だ」と、今、上り坂の人生を歩いているが、全ての同期はそんなことをできるわけでもなし。この七朋会が、上り坂の人生を生きる梃子になればいい。

人生は季節に準えられる。春夏秋冬だ。青春〜朱夏〜白秋〜玄冬。

私は今、さしづめ、白秋を生きている。しかし、私の人生に玄冬はない。白秋で次の世に旅立つのだ。その白秋を、私は70〜100〜120歳と想定している。
では玄冬はいつなのか。私の玄冬は、オギャーと生まれた0歳から、高校を卒業する18歳だ。暗闇から少しずつ灯りが見えてくる時代は、18歳まで。
青春は、大学生からサラリーマンで中途退職するまでの四半世紀。朱夏は45歳から69歳までの四半世紀。七転八倒のフリーター時代だ。燃えるような夏だった。

そして、これからの70歳からの30〜50年が、"実りの秋=白秋"だ。これから、本格的に"世のため人のために"生きていこう。そして、そのミッションを果たせぬまでも、後に続く後輩たちにバトンタッチして、次の世に旅立つのだ。

1978年に、五木寛之の小説で真野響子主演の「燃える秋」という映画があった。私は「男はつらいよ」くらいしか映画館で映画は見なかったが、なぜかこの映画を映画館に観に行った。あらすじは全く覚えていない。そんなことはどうでもいい。

私は、私の白秋を、'燃える秋(炎える白秋)"にしたいものだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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