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ふるさと能登を思う

3月14〜15日、1泊2日の能登・金沢出張を無事終えることができた。そして、私が生まれた中能登町では、半世紀ぶりにゆっくりと生家の在所を歩いて回った。懐かしかった。

中能登町の生家

昨日は、金沢の[OUEN COMPANY]の4社を訪問して、18時過ぎに北陸新幹線[はくたか]で東京への帰路に着いた。

コロナ禍前には、[OUEN塾in金沢/石川]で、月に一度は石川県に出張していた。しかし、今回の出張は格別な思いがある。
それは、元日に能登半島地震があって、それによって、私がしなければならないことが少しずつ明確化してきたことが大きい。
この2日間が、"私がしなければならない具体的行動のスタート"になったと、私にそんな感慨深い思いを齎してくれた。

[ふるさと能登]を思う。
[ふるさと]にちなんだ詩歌が走馬灯のように、脳裏に浮かんでくる。

[ふるさと]

兎追いし かの山
小鮒釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷

如何に在ます 父母
恙なしや 友がき
雨に風に つけても
思いいずる 故郷

こころざしを はたして
いつの日にか 帰らん
山はあおき故郷 水は清き故郷 

[仰げば尊し]

あおげば尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば

互いにむつみし 日頃の恩
別るる後にも やよ忘るな
身を立て名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば

朝夕なれにし 学びの窓
蛍のともしび つむ白雪
忘るる間ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば

[蛍の光]

蛍の光 窓の雪
ふみよむ月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を
あけてぞ今朝は 別れゆく

とまるも行くも 限りとて
かたみに思う ちよろずの
心のはしを ひとことに
さきくとばかり 歌うなり

ふるさとは遠きにありて思ふもの
(室生犀星)

ふるさとのなまりなつかし
停車場の人ごみのなかに
そを聴きに行く
(石川啄木)

ふるさとの山に向かひて言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
(石川啄木)

卒業式に歌った。学芸会でも歌った。国語の教科書で、石川啄木や室生犀星の詩歌を学んだ。
私のふるさとの思い出は、中学生で終わっている。半世紀以上前の思い出が、この能登半島地震で沸々と隠れていた思い出の底から湧き上がってくる。

東京での生活が長くなった。私の
"まともな勤め人生活"は44歳で終わっている。それから27年に亙り、フーテンの寅さんならぬドラえもんは、人間の幸せを求めて必死に生きてきた。

大学生や留学生の応援団長、企業の応援団長、延いては地域創生の一助になろうと、一匹のドラえもんは人生を七転八倒しながら生きてきた。

そして今、私のミッションは、"ふるさと能登の復興の一助"になるべく生きることだと思うようになった。
そのための渦をつくりたい。鳴門の渦潮のような、"能登復興の渦潮"をつくりたいと思う。大学生や留学生や企業の皆さんを巻き込んで。
それは大学生や留学生や企業の皆さんのためにもなるWin Win Win・・・・の渦潮だ。そのコーディネーターがOUEN Japan なのだ。そのブレインが重陽の会なのだ。

私のふるさと能登を、日本復興のモデルケースにしたいと思う。
超過疎地域が如何にして、明るく、幸せな地域になっていくのか。人口減少社会の目指す理想社会が能登地方であってほしい。

私のふるさと能登への想いを、心清き、心温かき、心熱き人たちが応援してくれる。助けてくれる。
もう感謝しかない。一人では何もできないけれど、そのような仲間たちが集まって知恵を出し合えば、思い描いたことはきっとできるだろう。
私は彼らたちに深い感謝の念を持って、彼らのために私の得手を惜しげなく捧げたい、全身全霊を傾けたいと思う。

自分のためは人のため、
人のためは自分のため

生きるということは、生命を燃やすことだ。私がその命を燃やすことに対して、多くの人たちが私を応援してくださる。そのことに深く感謝して、しっかり倍返し、三倍返しをすることだ。

能登復興を私の第二生のライフワークにしようと思う。そして、それを支えてくださる仲間たち、皆さんに恩返しをすることが、私の第二生のミッションなのだ。

不動院重陽博愛居士
(俗名  小林 博重)

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