映画「エデンの東」を観ました
同時期に、2人の方からそれぞれ別の場面で同じ映画を勧められました。
ジェームス・ディーンの本格デビュー作「エデンの東」です。
偶然でしたが、これはきっと観た方がいいんだろうと少し暗示めいたものを感じたので、観ることにしました。(ネタバレありです。ご注意くださいね。)
この映画は、旧約聖書「カインとアベル(兄カインが嫉妬から弟アベルを殺す)」という物語を下敷きにしていますが、更に、そこに「家族機能」の知識を重ねてみると、深みが増しますので、読み進めていただけると嬉しいです。
兄弟の確執と差別
この映画の中で大きな柱となるのは、家族機能でいうと、例えばきょうだい関係。
そもそもきょうだいは、子どもが初めて経験する「比べられる」体験になります。
誰もが、大なり小なり親の物差しで比べられ、優劣を感じる体験をしますが、映画の中でも、ジェームス・デイーン扮する弟キャルは、優秀な兄アベルと比べて自分が劣ると感じ、葛藤を抱えています。
兄弟間の確執を生む要因となっているのは「父親の価値観」です。
常に正しさを説く父親アダムは、自分に似た穏やかで優しい兄のアベルを可愛がり、母親に似た反抗的で不安定な弟キャルに、頭を悩ませます。
そして、信仰深いキリスト教の信者でもある父親は、ことあるごとに聖書の一節を読ませて、悔い改めさせようと叱るのです。その結果、弟キャル自身も、善人である兄アベルは父から愛され、問題児である自分は愛されないと感じていきます。
押し付けられる善と悪
そもそも「善」の象徴である父親は、「悪」の化身である母親との間に双子をもうける、それがアベルとキャルの兄弟。
何かあれば、すぐに聖書を用いてお説教を始める夫の窮屈さに耐えきれず、家を出た母親は、生きていくために酒場を経営し、商売で成功をおさめていきます。でもそれは父親からすれば、最も忌み嫌う汚らわしい「悪」のお金。正反対の二人が結婚し、うまくはずもありませんでした。
ところが、子どもは健気です。
どんな親であっても、愛されたいと願うのです。
父親の愛を一心に求めていた弟キャルは、レタス業で失敗して負債を抱えた父親を喜ばせたいと、母親にお金を借りに行きます。そして、そのお金を元手に一稼ぎするのです。
稼ぎ出したお金は、父親の抱えた負債分と同額。頑張った彼は、それを惜しみなく父親にプレゼントするのです。ところが、利益を毛嫌いしている父親は「返してこい」と突き放してしまうのです。
父親は、キャルが自分のことを思ってしてくれた事はわかっていても、自分の信念を曲げたくなかったのです。そして「私を喜ばせたいのなら、私が望むものを捧げろ」と伝え、キャルの心を傷つけます。
ここが結構つらいシーンです。
結局のところ、子どもの心を深く傷つけるのは、父親の中に刻まれている強固な「善」と「悪」。それを押しつけられた子どもは、大人になる過程で苦しみます。親の意向に沿う「いい子」であっても、反対に、突っぱねる「反抗的な子」であっても苦しむことは同じ。なぜなら、一度は親を否定しなければ、「個」としての自由な心を持って生きていくことが出来ないからです。
精神的な親殺し
子どもは、大人になる過程で、一旦は親の価値観を壊さなければなりません。
それは「精神的な親殺し」ともいわれ、心の成長に欠かせないものといわれています。
親の価値観を否定してアイデンティティを築くのは、一般的に思春期から青年期にかけて。どうせ壊す必要があるのなら、薄くて壊れやすい価値観にしておいてくれればいいのに、びくともしない強固な価値観を押しつけられた子どもは、激しく「葛藤」して、激しく「反発」しなければなりません。それは、想像以上にエネルギーのいること。応援してくれる大人の助けがなければ、到底やりきれないでしょう。
「愛されたいのなら意向に添え」という、条件付きの愛情しか提示されなかった場合、子どもが「愛されなくたっていい!」と突き放せる力を持つことは容易ではありません。周りにいる、親以外のたくさんの大人たちが、親に代わって慰め、励まし、温かく見守ってくれなければ、怖くて家を出ることもできないでしょう。
そういう意味では、映画の舞台となる第一次世界大戦を控えた1910年代のアメリカは、貧しくても人とのつながりがあり、弟キャルを支える大人が次々と登場してくることからも、恵まれた環境であったことが想像できます。
親との和解
映画の中では、父親から大切にされていた兄アベルも、苦しみながら親殺しの過程を進んでいきます。父親が示す「善」を疑わず、「善」に従うことで、父親の愛情をめぐる弟との競争に勝っていると思っていたのです。ところが、父親そのものが「善」の鎧を着た生身の人間だったことを思い知らさせるのです。
精神が不安定になった兄アベルは、志願兵になり、列車に飛び乗り、父親の元を去ります。時として、このような暴力的な分離のカタチを取りながら、自立に踏み出さなければならないこともあるのだと思い知らされます。
弟キャルはというと、脳卒中で倒れた父親の看病を通して、和解への過程に進んでいきます。強くて強靭だった、まるで神のような存在の父親が、一転して、自分では何もできない、全ての世話を委ねる無力な存在となるのです。親子の和解が急速に進んでいく時というのは、概ね子どもの中で、親の存在が小さくなっていることがあります。それは、今も昔も変わらない。
子どもの心の中で大きくなり過ぎた親を超えていくには、それだけ時間が必要なんだろうと思います。人間的な弱さを一切見せず、社会的にも立派だと評価される親を持った子どもは、親が植え付けた価値観を壊し、自分らしさを表現出来るようになるには、大変な苦労を伴うのです。
でも、親子関係は、最後の最後までわからない。
確かに、自分の理想を押し付ける親は子どもを傷つける、とも思います。それでも、関わることを諦めなければ、生きている限り変化し続け、成長していくものだと希望を感じさせてくれる、そんな映画でした。
既成概念を疑わない大人たちが、子どもの様々な表現を前にすると、本当は大人の問題なのに、子どもに問題があると捉えてしまいがちです。
でも、本当はそうじゃない。
そのことを知っている、本質を見極める目を持つ大人を、子どものそばに置いてあげたい。子育てが孤立しがちな今の時代だからこそ、余計そう感じるのです。
鶯千恭子(おうち きょうこ)