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角間先生

金沢で出会ったあの部屋を「角間先生」と呼んでいる。
六年間の付き合いに別れを告げた最後の最後、玄関のドアを閉める時に「ありがとうございました」ってすっと出てきたことに驚いてしまった。
あの部屋は友達であり親友であり、もはや先生だった。
今でも夢に出てくるのは今住んでいる部屋ではなくて、ドロドロの思い出とベチョベチョの感情が詰め込まれたあの部屋なのだ。
たまに会いに来てくれるから憎い奴だ。


金沢にはなんとなく憧れがあって、大学進学で住み始めた。
ドキドキしながら親と不動産屋さんに行って「大きな公園が近くにあるところがいいです!」いう条件だけ提示した。
結果してそれがすごくよかった。
2階ベランダの物干し竿を「槍投げ選手権だ」とか言って公園に向かって投げられたし、クソみたいな飲み会でトイレと流しがゲロで詰まってこの世の終わりを見た時に公園にトイレを借りに行くことができた。
特に公園を散歩したりはしなかったけど、あるだけでなんか安心した。
寝起きで眠たい目をこすってカーテンを開けて、太陽がよく映える朝の光景は好きだった。


金沢の街並みは落ち着きがあって自然で溢れているのに、どこか洗練されていると思う。
歩くと楽しい街だから、金沢のおかげで歩くのが好きになれた。
垢抜けた都会さとあるがままの自然が上手に共存していて、誰かが意図して作り込みましたって感じがしないから素敵に思える。
そしてそんな素敵な街並みがある土地には、素敵な食べ物がたくさんあるんだってわかった。
冬の金沢の景色と食べ物は特に秀逸で、めいっぱい着込んで、部屋から繁華街へ飛び出していったな。
特に足を運んだのは気品高く飲んだくれできる「木倉街」とかお酒の神様もいらっしゃる「新天地」とか 新宿ゴールデン街よろしくディープな「味食街」ってとこで、金沢を訪れたのなら一度は足を踏み入れなければならない場所だと思う。
にんまりしちゃう美味しい一品と、唸ってしまう美味しいお酒に出会って、お店を出た後に「また来れたらいいな」って思うはず。
あの頃はあの界隈に行けば行くほど金沢を好きになっていくことにも気づかずに自分の家に帰っていた。


大学は文字通りの山の中にあって、猿やら熊やらたくさん出るような恐ろしい場所にあった。
大学近くにアパートなんて建てられなくて、ほとんどの人が山の麓に住んでいるから、徒歩で行くことなんてできやしない。
みんな一回生の頃から原付や車を買って乗り始めて、持てない奴から静かにドロップアウトしていくような場所。
金沢は地下鉄も通ってないし、バス会社もかなりxxxxなので生活するには車が必須だった。
姉が車を買い替える時にどんな手を使ってでも譲ってもらわねばならなかったけど、無事にベージュの軽自動車を譲ってもらえて五年間乗ってた。
金沢だけじゃなくて富山とか福井とかの隣県に足を運べるようになったし、北陸をどんどん好きになった。
砂浜の波打ち際を走れる千里浜は感動したな。
しかし一番お世話になったのはラーメン屋さまでした。
金沢のラーメンは本当にレベルが高くて食の価値観を壊されるほどだった。
だから狂ったように色んなラーメンを食べに走っていた。
もはや芸術作品と呼べるほど尊い濃厚魚介豚骨。
あの時は未熟だから気づかなかったけど、金沢のラーメンには相当な量の麻薬が入っている。


大体の時間は布団の中に包まっていて、授業があるからしょうがなく身体を引っぱたいて頑張って外に出ていた。
友達が出来たからなんとなく学校に行っていただけで、それ以外の意味は特に何もなかった。
試験は毎回一夜漬けになってしまって、一度シャワーを浴びに帰ってレッドブルを買って再び学校に戻る。
残された時間は夜19時~朝5時の8時間。
ダラダラ三日やるよりも追い込まれた前日のほうが人間は羽ばたけるんだ。
翼がもげて地面に落ちたことは何度もあったけど、似たような奴が何人もいたからなんとか頑張れたんだな、ってのが今ならわかる。
工学専攻だったので研究室に入ってからは、それこそ天国だった。
あの三年間は人生で一番しょうもなくて有意義な時間だった。
起きた時間に研究室に行き、起きた時間次第では研究室に行かない。
その尻拭いはいつか深夜の自分が何とかしてくれるだろうって思いながら、また布団に入る。
いよいよ修士論文に取り掛かる9月頃に、担当教授から「君は3年間何やってきたの」って怒られて泣いたのを覚えている。
ついに地獄のターンが来て閻魔様が手招きしていた。
君のは手伝わない旨を言われて人生に絶望していた時期だな。
この時ばかりは布団を抜け出して部屋から飛び出た。
結局、深夜の自分が今後の寿命を前借りして何とかしてくれた。
社会人になった今はわかる、報連相こそが全てだ。


大学六年間は音楽に憑りつかれていて、バンドが大好きだった。
誰よりも音楽を深く聞いている自負はあって、もはや一種の強迫観念に囚われていたと思う。
中学生の頃からずっとロックンロールを敬愛していて、掘り下げていくうちに全てが同じところに辿り着いてストンと自分に落ちていく感覚が好きだ。
ジャンルはともかく、好きなバンドや新しく出会ったバンドをコピーする仲間を集めて耳コピして、練習入ってさあライブをするぞっていうのは楽しくもあり苦でもあったけど、例の深夜の自分が頑張ってくれた。
ギターを始めたのは大学生になってからだけど「自分の好きなバンドと対バンしてお酒を飲む、打ち上げで好きな音楽を語り合う」を目標にしていた。
最終的には自分がずっと聞いてきたバンドの方々と共演できたし、憧れの方とも共演できてちょっと上手くいきすぎた。
金沢にはバンドで敵無し!というか、そもそもライバルもいなかったし仲間もいなかった。
バンドをすることで音楽だけじゃなくて歌詞を書くことや文章を書くことが好きなんだなって気づけた。
だから今こうやって書いてるのもあるだろうし、図太く続けていきたいな。


六年も住んでいるとモノがどんどんたまっていくけれど、自分の場合は漫画とレコードとお酒だった。
そんなだから部屋から出る必要も特段なくて部屋の中だけで趣味が完結できていた。
漫画は短編集が好きで、一話毎に作者の書きたいテーマがあってそこに愛が溢れていたりセンスが爆発しているものに出会うととても嬉しくなる。
レコードは当時詰め込んだ空気感を聞いているようでとても嬉しくなる。
自分にとって漫画とかレコードは楽しいというよりは嬉しいものだな。
お酒は特に日本酒が美味しいし楽しいし嬉しいな。
漫画にしろレコードにしろお酒にしろ、悲しい気分の時は余計に悲しくしてくれるから取扱いには注意が必要だ。
部屋に鎮座していたこの方たちやその時の自分の感情たちが、自分の部屋を先生たらしめていたのかなと思う。
今もときめくモノだけそばに残して、次の引っ越し先へ持っていった。


金沢のあの部屋は、自分を立派な金沢ストーカー、いや金沢メンヘラに育てあげた。
卒業した後に引越しをしている時はべらぼうに酒を飲み、音楽を流し、写真を見返しては途方にくれていた。
どうせ友達も離れ離れになるし、新天地の生活も楽しみであったけど、今の部屋を離れることは耐え難かった。
そしてふと、次にこの部屋に住む人が開く飲み会が悲惨で恐ろしいものになる呪いをかけることを思いついた。
人生で一番強く何の神様かわからない神様に祈った。
その後まるで檸檬の爆弾を置くかのように酒を床に撒いた。(拭いた)
死んだ奴の怨念よりも生きながらにしてあの部屋に未だに囚われている自分の怨念のほうがはるかに強い。
先生のせいでもともとの捻くれをさらに拗らせ、心の中にモヤモヤがないほうが不幸せになってしまったけど、今さら後には引けない。
あの頃に戻りたくもあるし、一度きりでいいなって気持ちもある。
ただあの部屋は友達であり親友であり、もはや先生だった。
そうこう言っているうちにもうすぐこっちで飲み会始まるよ。
遅れないように布団から出ないとね。

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