創作者としての悩みと気持ちのあり方を考える

産みの苦しみ。私も、一創作者として悩みや葛藤を抱えている。今回は私自身の経験を元に創作者の気持ちのあり方を考えてみる。


・承認欲求と自尊心

創作者には二種類いると私は思っている。一つは、読者(観者)のニーズに応える者。もう一つは、自身の内側の声、内なる神の声に応える者である。

私は、自分は後者であると思っている。自分の中に理想や究極の目標があって、その抽象的な存在にいかにして形を与えるかが使命であり、創作意欲の原点となっている。
私自身がどういう人間であるか、どういう人生を生きるかという以前に、全ての経験はその創作の下地に過ぎないという前提があり、私の人生はそれを完成させるための過程に過ぎず、創られた作品そのものこそが人生である。そういうつもりで私は生きている。そのため、作品を認めてもらえることが私自身を認めてもらえるということであり、この肉体と普段の私を認めてもらうことは、私にとっては何の意味もなさないのである。

だから、私が創った作品は一人でも多くの人の目に触れられたいし、内容を理解してほしいと思っている。ところが、現実には全くという程理解してくれる人はいないのである。自分にとっては、こんなにも分かりやすく、そして美しい作品を生み出せたと思っても、理解できない人にとっては、頭のおかしい人が訳の分からないことを言っているようにしか見えないのだ。そして理解できないから読まれないという悪循環。理解できないから批判もされないけれど、作品が他者に認められないことは私の人生を否定されたも同然のように感じ、作品に対する信頼の揺らぎと孤独による苦しみを感じてきたのだった。

そこで私は、哲学関連の活動をする人たちとコンタクトをとってみた。私の創作の内容は人生哲学に関連しているため、朋輩であれば理解してくれるだろうと考えたのだ。
しかしどうだろう、哲学には様々な解釈や形態があり、人生哲学となれば尚のこと人の数だけ様々な思想があるため、より理解を得るのは難しいのが現実であった。


・評価に拘るのをやめる

理解されない苦しみに耐えかねた私は、長いこと人生の師として慕っているM.K先生にアドバイスを求めた。すると、こういう返事をくださった。

理解するか否かを、読み手に任せる。評価に拘らないことが大切です」
「私の知り合いの作家は、作品を読み手に渡すまでが役目だと考えています」

言われてみれば、確かに当たり前といえばそうなのだが、私にとっては目からウロコなアドバイスだった。
まず私は、作品自体を「冒険者ギルドの募集案内」のように考えており、同じ理想を志す者を見つけること、そしてその人たちと共に理想郷を目指すことをゴールにしている節があった。だから理解されることが大前提で、その上で仲間を見つけたいという気持ちがあったのだ。
理解するか否かを読み手に任せることは、作品そのものも、読者のことも尊重するということになる。理解されなかったとしても、自分にとって正しいと思うこと、目標に向かって努力し形として残せただけでも素晴らしいことなのだ。そう考えられるようになって、孤独が癒えた訳ではないが、少し気持ちは楽になった。


・理解されるよりも幸せなこと

このまま死ぬまで誰にも理解されないのかもしれない、私の作品は日の目を見ずに灰となって散るんだ……。そう落胆していた私に、M.K先生はもう一つアドバイスをくださった。

「全てを理解するのは難しい。
しかし、理解できないまま受け止めてくださる方は現れます。それはもしかしたら、理解されるよりも嬉しい、幸せなことなのかもしれません」

私とあなた、あなたと私。
他人が他人である限り、その全てを理解することは難しい。創作物もその人の一部であり、それの全てを理解することもまた難しいということだ。
どんな種類の作品かに関わらず、創作者たちは大なり小なり観者のことを考え翻訳も含めて創作しているのではないだろうか。だからこそ忘れてしまいがちだが、どんなに素晴らしいものでも、全てを理解できるのは自分自身だけであるということ。
むしろ、理解してもらえない悔しさを、他人への寛容さを育む糧にしていきたいものである。

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