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#1 こえろ、ミジンコ

ミジンコ。小さな甲殻類。
体は丸く、いつもバンザイしていて、目は真ん中に一つ。

平均寿命1か月。

通常メスしか生まれない。
メスだけでも卵を産み、命を育てる。

私の好きな人はそんなミジンコに惚れこむこと20年、未だに女に見向きもしません。

彼は今、ミジンコの遺伝子操作に夢中です。

ああ、私もミジンコになりたい。

・・・

森里環(もりさと たまき)は、壁沿いにズラリと並ぶボトルの一つに目をやり、ゲッとなった。中で繁殖させていた大量のミジンコが明らかに死んでいる。ここがもし一つの星だったら絶滅である。ああ、何個もあって良かった。あぶない、あぶない。

今現在、遺伝子操作のため顕微鏡から目が離せない林理仁(はやし りひと)に「ねえ」と声掛ける。反応がない。

「ねえ」
「今話しかけないで」

知り合って3年も経つのに、私ったらまたやってしまった。

顕微鏡を覗き片手に極細注射器を持っている時は、彼に決して話しかけてはならない。そのルールはこの研究室の全員が心得ている。


ここは中都大学工学部 応用生物科学科 奥田研究室。ミジンコを始めとする生態系について研究している。

東西に長いキャンパス内でも一番西側に寄せられた研究棟で、昼夜研究に励んでいた。

人気があるような有名研究室ではなく、メンバーは学部生含め20人。大体が、修士課程を終えると就職するため、博士課程は今現在5人しかいない。

珍しく博士課程に今年の春上がってきた1年が、この森里環と林理仁である。


カラーリングもパーマもかけていない生まれたままのセミロングの髪を、焦げ茶のヘアゴムで一つにまとめ、白いロンTにデニムという、ファッションへの無頓着っぷりも甚だしい女が、森里環。

ごくごく普通のサラリーマン家庭に生まれ育ち、中学校3年の時の担任に恵まれ、猛勉強の末に県内屈指の進学校に入学。

理系クラスに属し、周りの男子に遅れを取らないよう必死に勉強ばかりしてきた。

なんとかこの二流大学に現役合格したものの、授業のレベルの高さに半ばついていけず、大学4年の研究室選択の際、再生医療系の研究室は全てはねられ、コロンコロン転がってなぜか興味もないこのミジンコ研究室の一員となった。

しかし、そこで思いがけず運命の出会いを果たしてしまう。

そのお相手というのが林理仁である。

スッと通る鼻筋と凛とした目元を見た瞬間から、ズボズボと溺れるように恋に落ちてしまったのだ。

3年間同じ研究室で苦楽を共にするも友達以上の関係になれず、この博士課程にいけしゃあしゃあと延長戦を持ち込んだのである。なんとも不純な動機。

一方、この白衣が似合うシュッとした面長の好青年・林理仁は、環とは異なりエリートコースを順当に歩んできた。

幼少期に自然界の楽しさに目覚め、メダカを育てているうちに餌になるミジンコに興味を持ったという。

小学5年生の時には「全国自由研究コンクール」でミジンコについて発表し審査員特別賞を受賞。

中高一貫の超難関男子校にあっさり合格し、中3の時にも「ジュニアサイエンスコンクール」に応募、そこで最優秀特別賞を受賞した。もちろん発表内容はミジンコについて、である。

そのような国内トップクラスを誇る進学校のさらにトップを走り抜けながらも、ミジンコ界で尊敬して止まない奥田圭司教授を追って、非常に勿体ないことにこの二流大学に進学してきたのだ。

この秀才が入ってきたことによって、大学は奥田研究室への予算を増やし、新しい研究機器も導入した。大学全体の期待を背負ったルーキーなのである。

この歩んできた道も考え方も異なる二人が、今こうして同じ研究室に居残っている。


理仁はやっと顔を上げた。

「なに」

彼は感情を声に乗せない人間だった。頭のいい人の特徴なのだろうか、頭の中でたくさん咀嚼した言葉しか発しない。たまに「ああ!」とか「くそ!」と発する場面もあるが、それは研究で過熱してる時に限ったことだった。

「このボトルのミジンコ、全滅してるよ」
「あーやっぱり。そろそろ死ぬと思った」

環のせっかくの報告に、理仁は両手を頭に乗せ、椅子の背もたれをギーコギーコ前後に揺らしながらサイコパスを感じさせる口調で答える。

ミジンコのことが大好きでも命までは大切にしようと思わないらしい。ただ、生命体としてこの上なくそそられるだけ。

「ってかさあ」と話題を転換する。

「ずっと言えなかったんだけどさあ」

環はボトルから理仁に目を向けた。

誰もいない研究室に、男女二人。

「どうしても伝えておきたいことがあって」

まさか、まさか・・・。
予期せぬ展開に、抑えようにも胸が高鳴る。

頭の中で文を組み立ててるような表情がじれったい、早く言って、ああ、だけど待って、私も今心の準備をするから。

理仁が心を決めたように口を開いた。

緊張の一瞬。

「その服、下着全部見えるよ」

理仁がなかなか言い出せないでいたこととは、環の服が透け透けかつ胸元が緩いことだった。

この服を買ったのは遥か2年も前になる。着心地が楽で、しょっちゅう着回してる定番の一着だった。

しかし、なんということ、そんなにガードがゆるゆるな服だったとは。

環はハリセンで頭をバシーンと痛快に叩かれたような衝撃を覚えながら、フラフラと自分のバッグに歩み寄る。

「まあ、いいじゃん、どうせ俺だしさ」

理仁はそう言い、「ね」と付け足す。

なにが「ね」だ。

環はバッグの中から財布を取り出すと、「ちょっと、喉乾いた」といい、今にも倒れそうな足取りで研究室を後にした。

ああああああ、ショック。大ショック。よりによって大好きな理仁に指摘されるなんて。

廊下を走りながらそんなショックをごまかす。

研究棟と講義棟の間にある中庭に出て、赤い自動販売機にもたれかかる。

許されることなら、この自動販売機にガンガン頭を打ち付けたい。打ち付けてこの白いロンTを買ってしまったあの日から全てなかったことにしたい。みんな思ってたんだ、なのに誰も言ってくれなかった、2年間も。

環は深いため息をつくと、珍しく炭酸飲料を購入する。

論文は全然予定通りに進んでいないが、今日はもうちゃっちゃと帰ろう。他の人間が研究室に帰ってくる前に。

そして家で真っ先に着替えてやる。

環はそう決意し、ゴキュッゴキュッと一気飲みすると、悲しい炭酸が喉を痺らせた。

#2

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