#4 こえろ、ミジンコ
学祭の日の朝は気持ちいいほどに晴れ渡っていた。
環は11時に理仁の部屋に向かう。昨日も来た2階建てのアパートの1階。103という部屋番号を念のため確認しインターホンを鳴らすと、すぐに中から雑な「はい!」が聞こえてきた。
「きたよー」
環も返すと、ガチャッとドアが開く。
そこにいた理仁は、首元がダルダルに伸びきったえんじ色のTシャツに、ダサさが隠し切れないグレーのスウェットという部屋着のままだった。
「さっき起きた」
やっぱり。環なんて昨晩は優那から「肌に合わなくて」と貰った韓国のカタツムリパックで肌を潤し、夜更かしは良くないからと早めに就寝。そのせいで今朝は朝6時にパッチリと目が覚め、卵かけご飯をかきこむと、家を出るまで何度も何度も鏡の前を行ったり来たりして今日のコーディネートを確かめたというのに。
「もう行くの?」
理仁が眠気を乗せた口調で言う。
「ちょうどいいんじゃない?」
「待って、ちょっと着替えるからどっか座ってて」
理仁はそう言ってフラリと部屋の奥へ消えた。
環は足元を見下ろし、仕方なく玄関の僅かな段差に腰掛けた。片付いてはいないけど、物もない台所を見る。
床には、おそらく実家から送ってこられたのであろう米の袋と野菜とがダンボールのまま置かれている。だけど自炊などするはずがない。朝から晩まで研究室にこもっているのだから。環もしかり。
だけど親はしっかり分かっていて、カップ焼きそばやラーメンなどインスタント食品も詰め込んでいるようだった。
ガランと寂しげなコンロに、出番のなさを物語るキレイなフライパンだけが置かれている。
一人暮らしの男の台所なんてこんなもんか。
「そこの皿たち3日前のー」
聞いてもいないのに、部屋の向こうからわざわざ理仁が申告してきた。
「ええー、他の女の子だったらひいてるよ」
そう笑うと、顔だけピョコッと出し、
「洗いたかったら洗っていいよ」
とにやり。
誰が洗うよ。環はしゃがみ込んだまま動かなかった。
「あ、これうちの親が送ってきたやつ、飲む?」
理仁が缶コーヒーを見せてきたので、「それは飲む」と言って手を伸ばす。ひょいと投げてきたそれを見事キャッチ。微糖のコーヒーを飲んで少し休んでいるうちに、パーカーに着替えて少しはマシになった理仁が部屋から出てきた。
しかし、ジョリジョリした顎を触っては「やべーヒゲ剃ってない」と呟き、折れるように洗面所に姿を消す。
「理仁ってヒゲ剃ってんだ?」
「剃ってるよー」
当たり前じゃん、みたいなあっけらかんとした声。
環は勝手なことに、理仁にはヒゲなんて生えないと思ってたため軽い衝撃を受けた。いつ見てもツルッとしてるし肌も白いから、そういうもんだと思ってたのだ。これを何ショックと言うんだろう。ああ、そう言えば女子のムダ毛を見てしまった時の男子のショックも同じものだろうか。
理仁のヒゲ剃りを待ってる間、環はスマホで学祭のことを調べる。
「今日11時半からあいはらまさのぶのステージだって!」
「誰だよ、そいつ」
「えー、知らないの、ピン芸人だよ」
「知らなーい」
やっぱり、理仁はこういうことには一切の興味を示さない。テレビとか見ないから芸能人にはすごく疎い。しかし学祭のステージにあいはらまさのぶを呼ぶというセンスもいかがなものか。
「もっといい芸能人呼べないのかなー」
環が暇つぶしにそんな事を言ってると、3歳くらい若返ったいつもの理仁が登場した。台所のシンクを見て「皿洗ってないじゃん」と呟く。
「ミジンコ飼ってそうだからやだ」
「いねーよ」
理仁が笑う。その笑顔を見て、ああ、好き、と環はしみじみ思う。
どうしてこの顔面を持っていながら、脇目も振らずミジンコの研究ばかりできるのですか(私という女性もいながら!)。なんて罪な人。
環は自分の今日のメイク、髪型、コーディネートを顧みる。いつもはパウダーとリップのみというほぼすっぴんだけど、今日はマスカラも塗ったし、チークも頬に乗せた。髪もおろして巻いたし、さらにタンスの奥に眠っていたボックススカートも引っ張り出して履いてきた。
さあ、どうでしょうか。
そんな環の問いかけもよそに、理仁は「じゃあ、行きますか」と言って玄関のドアを開けた。
大学の入り口に設けられた総合案内。ピンクのハッピを着て浮かれまくった大学生の男からパンフレットを貰う。
パッと開いてみると、たくさんの手書きの小さな文字が所狭しと並んでいて、それらは二人に「来て来て」とアピールしていた。
メイド喫茶に占いの館、お化け屋敷にジャグリング。たくさん並んではいるけれど、これといって強く惹かれるものもない。
「ねーねーどこ行く?」
環がそう聞くと、理仁はパンフレットを覗いて「んー」と軽く悩む。
「研究棟行って論文の続きしたい」
そんな自分の発言をすぐに「うそだよ」と言って笑い流すけど、きっとこれがこの男の本音だろう。環にはすぐに分かった。
「俺たちも展示すれば良かったねー」
理仁が伸びをしながら続けた。
「ミジンコの?」
「そーそー、ミジンコ光らせて、『わー、きれー』って」
ミジンコはたしかに蛍光タンパク質を使えば透明のその体を光らせることができる。だけど肉眼でようやく確認できるほどの小ささだから、どうせ光らせたところでただの点々にしか人の目に映らないだろう。
「キレイかな」
「キレイなんだけどなー」
理仁は譲らない姿勢を見せる。環には理解できなかった。
でもね、そんなところに芸術を感じる理仁が好きよ。
結局、二人はいつも学食へ向かう時のように適当な会話を繰り広げながら、二足歩行のロボットを操縦したり、プログラミングで音楽演奏したり、似顔絵を描いてもらったりして適当に時間を潰した。
時間をとっくに経過してから、あいはらまさのぶのステージのことを思い出す。結局環にとってもどうでも良かったのだった。
13時過ぎて、二人は露店で焼きそばと豚汁を手に入れ、稚拙な学生バンドのステージが不思議と盛り上がりを見せる中(どうせ内輪だけの盛り上がりだろう)、人の少ない講義棟の脇に場所を移す。
丁度いい花壇があるから、そこに並んで座って食べる。
「うま」
理仁の口から湯気に乗って言葉が漏れる。
「家で作る焼きそばより数倍美味しいよね」
「うまいねー」
そんな脈絡のない会話をしていた時、理仁の表情が不意に変わった。
緊張感を帯びた面持ちで「あのさ」と切り出す。
こんなところで何だろう。
「もし俺たちさ」
「うん」
ズンダンズンダン、向こうの方から鳴り響くドラムが、たいして上手くもないくせにやたらと存在を主張してくる。
「もし今年お互い何もなかったら」
「うん」
環はついこれから続く言葉に期待しそうになりながらも、期待なんてしちゃだめよ、私、とブレーキをかける。
だって、この間だって洋服の指摘だった。きっと今回も次の実験のテーマについてに決まってる。
「俺たちさ」
理仁の声がバンド演奏によって掻き消される。ズンダンズズダン・・・
ちょっと止まってくれ、今大切な話なんだから。
「うん」
しかし理仁はなかなかその先を言わない。
その時、スッと人影が目の前に現れた。
見上げると、肌と瞳が透き通ったハーフ美人が理仁の前に立っている。
その女はチラッと環を見た。
「恋人さんですか」
その透き通る粟色の瞳に、環はたじろぐ。思わず理仁を見るも、理仁も環を見返す。そして、美人を見上げ、こう言った。
「いや、全然そういうんじゃないですけど」
環は少なからずショックを受けた。
おお、確かにそうだ。だけど、ちゃんと言葉にして言われるとショック。「全然」は付けなくてもいいのでは?
「私、大学2年の勝田エリーって言うんですけど、たまにキャンパス内で見かけて」
彼女はバンド演奏に負けないように、声を張る。
理仁は口を閉じて固まってる。これは嫌な予感。環は次の瞬間に身を構えた。
「ずっと、かっこいいなと思って見てたんです。もし良かったら連絡先教えてください」
ガッデム。
環は大きくパチクリ瞬きをする。
なんということでしょう。私が隣に座ってるというのに堂々と言いやがりましたよ。
環なんぞ全く気にしてないような自信。
こんな美人も理仁を狙っていたとは。大事件勃発。
超部外者の環はひたすら邪魔しないよう空気に徹し、薄気味悪くそこに笑い佇むしかない。一瞬にして昨晩のカタツムリパックという準備もスカートを引っ張り出したという勇気も、水の泡となって消える。
ズンダンズズダン、ズンダンズズダン、ズンダンズズダン・・・鳴りやまない初歩的な8ビート。おそらく初心者が叩き続ける単調なリズムが煩わしく鳴り続く。
理仁を見ると、ずっと固まっていた口がやっとわずかに動いた。
なんて答える?
「はい」
理仁の声が、そんな騒音を切り開くように静かに響いた。
ピキ、ピキピキピキ・・・音を立てて環のハートに亀裂が入る。思考停止。ピーピーピー。
ポケットをガサゴソし始める理仁を、環は大人しく正視できない。
私の目の前でやっちゃうのですか。私は今、透明人間となってるのでしょうか。
しかし理仁が取り出したのはスマホではなく学会発表用の名刺だった。
そこに書かれてあるのはせいぜい研究室で割り振られた個人用メールアドレスくらいだ。プライベートでは出番なし。しかも入れっぱなしだから角が少し柔らかく折れ曲がっていた。
勝田エリーも受け取ったものの、「?」な表情になる。
「俺、基本的にずっとここいるんで」
理仁は淡々と言う。
予想外にもその一言が決定打となって、環のハートはパリーンと割れてしまった。
研究室は理仁の聖域である。とても神聖で、決して汚されてはならない。
そしてまた環にとっても誰にも入って欲しくない場所だったのだ。
勝田エリーは少し驚きながらも、タイムラグを置いて嬉しそうな笑みを浮かべ、「ありがとうございます」と言った。
そしてペコッと頭を下げると賑やかな講義棟の表の方へと駆け足で消えていった。
環は「よいしょ」とかがみこみ、足元に散らばったハートの破片を拾い、また一つ一つピースをはめるように形成し、ボロボロではあるけれどかろうじて元に戻す。
「研究室に呼ぶんだ?」
環の声は震えていた。相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべたまま、それを隠すように豚汁を飲む。
理仁もまたしばらく止まっていた箸をやっと動かし、焼きそばをすする。
「たぶんあの人、俺がただのミジンコ馬鹿って知らないと思うから」
環は心を落ち着けるように深呼吸をする。
だめだ、気を緩めたら直したばかりのハートがまた砕けそう。そしたらもう、お手上げです。
環の悲しい感情を乗せた豚汁の湯気は、何も知らない陽気な青空にすぐに消えた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?