#7 こえろ、ミジンコ
月曜日になった。そう、土曜日の幻想ナイトリアム明けの奥田研究室である。
それぞれがミジンコの様子をチェックし、メダカに餌をあげ、パソコンの電源を入れ、今日という一日のスタートを切り始めた頃、院生の全注目を浴びて理仁が登場した。
「おはようございます」
そう言う顔はいつもの調子となんら変わりなく、その表情からはデートの結果が伺えない。
李さんがチラリと環に視線を投げ、ちゃんとCheckしてみたら?と目と右肩で伝達する。
「なんですか」
そんな不自然な李さんと環に気付き、理仁が二人に声を掛けた。
「いや、べつに」
環はそう言いながら、研究室に届いていた最新号の学術雑誌「クアンタム」を渡しに近づく。「クアンタム」は届いたら真っ先に理仁に渡せというのがこの研究室の暗黙のルールである。研究室の経費で電子版も取っていながら、紙の方が目が疲れないからという理由で理仁は紙版を好み、それはそのまま理仁の手元にファイリングされていた。
理仁はパソコンの電源を入れながら「昨日もずっと論文書いててさ」と環を見上げ、その何か言いたげな表情を見て言わんとしていたことを飲み込み「なに?」と尋ねてきた。
「なんか聞きたいことあるなら聞けば」
この理仁という男、婉曲を嫌い、常に最短合理的に進めることを好む。
「幻想ナイトリアム、どうだったの」
「聞きたいの?」
「聞きたいけど後ででいいよ」
環はそう答え、「クアンタム」をそっと理仁の机に置くと、自分の席に着いた。
もしショッキングな結末が待ってるのなら、誰もいない場所でショックを受けたい。そして静かにトイレに篭ってやる。
◇
昼休憩時間になり、他の院生たちが学食へと消えた。
理仁が環に声を掛ける。
「生協行かないの」
環はハッとして「行く」と答え、一緒に財布を持って廊下に出た。
チラホラと他の研究室からも学生が廊下に出てくる。研究自体、講義のように時間が決まってるわけじゃないため、この研究棟は常にダラッとした空気がある。日によっては昼休憩は後回しになり気付けば夜、なんてこともザラである。
理仁と環はちんたら研究棟の出口に向かって歩く。
「幻想ナイトリアムの話聞かせてよ」
環は階段に差し掛かったところで思い切って聞いてみた。ちょうど他の人間がいない静かな空間だったからだ。理仁は一瞬だけ考えたように黙り、すぐ口を開いた。
「何もなかったよ」
「何もないわけないでしょう」
「あれ見た後、ちょっとご飯食べて別れた」
「それ立派なデートじゃん」
私の言葉に理仁は「んー」と考え込む。
「緊張してるうちに終わった」
理仁の言葉と同時に一階に着き、二人は突き当たりの渡り廊下に向かう。
「まあ、相手美人だもんね」
「そうそう、しかも頭いい子だからさ、何話しても盛り上がってくれたから、いい気になって俺ずっと話してたんだよね」
理仁の口から「ずっと話してた」なんて発言が飛び出した。
珍しい。この男がペラペラと?そんなのミジンコの精子だとか卵子だとかはたまた受精卵を刺激するだとかそんな話題でしか見たことない光景だ。
普通の女相手に話すことのできる引き出しが他にもあったとは。それは環には見せたことのない一面。
「そしたら最後の最後に『本当にミジンコの話しかしないんですね』って」
理仁が自分のことを嗤うような顔で環を見る。
「終わったよね、俺」
そうじゃないよ、と言ってあげたいけど、初デートでミジンコの話しかしなかったとは、まさかというかさすがというか。彼の心には雲ひとつなくミジンコの空が晴れ渡り、どこ見上げてもきっとそこにはミジンコがいるということを改めて知らされる。
いやしかし緊張してたとはいえ、せっかく相手はミスコンにも出たり、ドイツ語話せたり、乗馬が好きな子なんだから、話題はいかようにも広げられるのに。
「他にもいろいろ考えてたりするんだけどさ」
渡り廊下に出たタイミングで理仁がぼやく。
他に、いろいろと?いやしかしこうなってくると、理仁はやはりミジンコのことしか考えてない説が濃厚だ。どうせいろいろと言ったって、生協で何買おうとか、最近コーラ買ってばっかだなとか、髭剃るの面倒くせえなとか、どうせその程度のものだろう。
「いろいろって・・・」
「意外に思うかもしれないけど」
「うん、教えて」
「実は」
溜めて溜めて環を見る。そんなに誰にも言えないほど意外な一面の暴露なのか?
「うん、なに」
こんな場面でも環はつい理仁に見惚れてしまう。いつ何時見ても理仁の顔は整っている。準ミスも惚れるはずだ。なぜこんな端にあり、学食からも遠い研究室で昼夜ミジンコの卵子にホルモンを注入してる?
「深海魚にドハマりしてしまいました」
「・・・」
拍子抜けした。そんな暴露は求めとらん。いやしかしそれは超絶ビッグニュースだ。3年一緒にいるが彼の口から深海魚なんて聞いたことがない。
ミジンコは基本的に田んぼや池などの浅瀬に生息している。なのに深海だなんて、一体彼の身に何があったのだろう。環の処理能力は追いつかない。
ゆらゆらと光差し込む表層から深く深く降下していくと胸が押し潰されそうな苦しみに襲われるが、フィンは止まることなく揺らぐように水中を推進し暗く重い深海に到達する。
ブサイクな生き物がぬっと環の正面に姿を現し「へろー」と言った。その目は見開かれ、開いた口は塞がらず、何かショッキングなことでもあったのですか、とでも聞きたくなるような愕然としたような表情をしてるが、彼女らにとってはこの顔面が常であり取り立ててショッキングなことがあったというわけではない。
彼女は言った。私はアンコウ、見て、オスったら私に噛み付いてるでしょ。知ってた?彼ったらね、私の体の一部になって死ぬなんて言うのよ、馬鹿みたいよね、私に命捧げちゃうのよ、ありがたく頂くけど。でも信じられないな、誰かを愛するが故に命を絶つなんて。死ぬなんて分かってたら絶対に私は誰かを愛さない、そんな自己犠牲の愛なんて結構です。ほんとメスに生まれて良かった。こうして噛みついて私の体の一部になってくれるんだからオスに感謝しなきゃ、オスになってくれてありがとう、私は生まれ変わってもメスでありたい。あなたは?あなたは何回オスに噛みつかれたことある?
ブサイクな面。だけどなぜだろう、私はアンコウになったとしてもきっと誰にも噛みついてもらえない、誰も私と一体になることを選ばない。噛み付いて彼女と同化したというオスよ、なぜ彼女を選んだ?それは何?同じブサイクな面だとして、彼女と私を隔てるそれはなんなの?
彼女の腹に噛み付いたばかりの小さなオスが歯を開くことなく振り返る。ふふふふ、同じブサイクな面と言ったか?どこが同じ面だよ、よく見てみろよ、彼女は学校一の美女ではないか、自分と同じ部類の生き物と思う方が大間違いだ、今すぐアパート帰ってよーく鏡を見てきやがれ、よれよれTシャツの娘さん。見ればそのオスは理仁ではないか!
環はハッとして陸に上がってきた。ザバッ!あーおぞましい。
「理仁が深海魚にハマるなんてビックリだよ」
「自分でもビックリだよ」
「何があったの」
そう聞きながら、もしや・・・と一抹の不安を覚える。もしや勝田エリーが深海魚好き?しかし環の深読み心配をよそに、理仁の口から出てきたのは「グソクムシ」というワードだった。
「グソクムシの顔面見たらかっこよくて」
グソクムシというのは、ダンゴムシの仲間だ。等脚類の一種であり7対の符節でその体を成す。ダイオウグソクムシはその中でも最大のものである。
「グソクムシ、甲殻類だもんね」
「そっか、自分でも気づかなかったけど、俺もしかしたら甲殻類が好きなのかな」
理仁は新たな発見を得て興奮を覚えたようで瞳が一層爛々と輝きだす。
「ダイオウグソクムシの動画見てたら、止まらなくなっちゃってさ」
ミジンコの性決定因子について話してる時と同じ表情だ、とてもいい顔をしている。
「でも深海魚に惹かれるのは分かる」
環は適当に言ってみた。実際惹かれるどころか、うぅえっ気持ち悪っ・・・としか思ったことがないけれど。
「深海魚、好き?」
そう問う理仁の目は無垢で疑うことを知らず、どんな色の水でもそのまま飲み込んでしまうアホなスポンジのようだった。騙せ、このスカスカ純粋無垢な男を騙すのだ。
「興味はあるかも」
自然と口をついて出た。興味など「興味h・・・」あたりでやっと抱いたばかりだ。無理矢理抱かせた、と言う方が近い。
しかし目の前の男の表情は即座にお天道様の光を天まで跳ね返すような威力で輝き、口を開いた。
「行かない?深海水族館!」
なんということでしょう!ここに来てデート、しかも水族館というデートの王道の王道、上の上クラスのインビテーションを頂きました!振り返ればダイオウグソクムシとさっきの憎たらしいアンコウが拍手を送っています!
ありがとう、ダイオウグソクムシ!!と、アンコウ。
環は指の先から爪先からアホ毛の先まで全身に喜びのエネルギーを行き渡らせ、隆起した筋肉がメリメリと皮膚を引き裂き、脱皮もしくは戦隊モノのごとく光り輝くシン・環を出現させた。
ぼろぼろになっていたハートはキンキラと光り輝く強靭な鋼となって生まれ変わる。強い、このハートは強い。
シン・環が立ち上がる。
HAHAHA,いいかハーフ美女よ、この男、理仁は甲殻を持たぬ生き物になんぞ興味はないのだよ。笑える。あー笑える、クラゲの展示に誘うなんて。それでこの男の気でも引けると思ったか。同じ無脊椎動物だからって油断すんなよ、こっちは甲殻があんだよ、甲殻が!!!HAHAHAHAHA,AHAHAHAHA!!!!
環はそんな胸の内など表に出すような愚かなことはせず「うん、いくいく」と、ああ、いいね、面白そうじゃん、くらいのテンションで返す。
ここにデートが決定!
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