#5 こえろ、ミジンコ
構内に戻ると、壁一面にチラシが貼られ、「受付」と貼られた椅子が廊下を狭め、カラフルなアフロヘアした呼び込みの学生がゲラゲラ笑いながら練り歩き、ただでさえ天井が低く薄暗い空間は一層窮屈なものに感じられた。
しかしそのなかで凛と風格を保つ一枚のポスターに二人の目は止まった。ミスコン出場者のプロフィールポスターである。
そこに並ぶ一人の顔に、二人はハッと顔を見合わせる。斜め横の角度から挑発するようにこちらに向けられたその瞳は、自信に満ち溢れていた。
国際教養学部 2年 勝田エリー。
透き通るような美しい顔。黄色人種の色白とはまた違う、本当の「白」だ。もちろん他の出場者も美人だが、彼女はそのなかでも別格の美しさを放っていた。
「これってさっきの子だよね」
「ほんとだ」
「夢はアナウンサー。特技は英語、ドイツ語、乗馬」
環がプロフィール欄を音読すると、理仁がチラリと横目で見る。
「恐ろしいんだけど」
ゲッソリとした表情。これには環もまったくの同感だ。
生まれ持って美貌という武器を既に手にしてるのに、トリリンガルとは。ドイツ語が含まれているということは、ドイツ人とのハーフなのか。もしくは第二外国語としてのドイツ語か。
アナウンサーによくいる国際派優等生美人。最初こそエンタメコーナーで海外トップスターへのインタビューもするだろうが、彼女たちはその美貌に甘えることなく得てして報道をやりたがるものだ。そして地球の課題、紛争や環境問題などに真摯に向き合う。
「ミジンコと女子アナ、面白いじゃん」
環は振り絞るような声で、全く心にもないことをぽつりと呟いてみる。
「話が合うわけないじゃん」
「話してみないと分からないよ」
空虚な一言だった。
しかし、このポスターを拝見しただけで、彼女はピラミッドのトップに君臨してきた人間だということが分かる。
となると、今現在環の隣にいるトップ中のトップを常に走り抜けてきたミジンコ馬鹿とも案外釣り合ってしまうのでは、という結果が下され、またしてもそれは環を苦しめた。
世の中に常在する男女のバランスとはそういうものである。
15時になるとキャンパス内中央に設けられたステージにたくさんの学生が集まってきた。ミスコンファイナルステージだ。そこに環と理仁はいた。
なぜ。環はステージ上に並ぶ8人の美女を見つめる。
本当は今頃仲良くクレープでも食べ、きゃははわははとくだらない話で盛り上がり、そろそろ帰る?どうする?僕はまだもう少し一緒にいたいんだけどな、なんて3年間の恋が一歩前進するはずだった。
しかしなぜ、今、好きな人と一緒に8人の美女を眺めているのか。
勝田エリーは3というプレートを右胸に付け、左から三番目に立っていた。真っ赤なロングドレスに身を包み、ストレートヘアをストンと落とし、天から頭頂を引っ張られたような姿勢でそこに立っている。
美しい。さっき声かけてきた時よりも一段と美しくなっている。
「どうですか、みなさん緊張してますか」と司会の男が声をかけると、8人がそれぞれに少し表情を和らげ頷く。
「とうとうこの時がやってきましたね」と女が胡散臭さいっぱいに盛り上げる。とうとう、と言われても環も理仁もさっき知ったばかりなのだが、みんなそんなに待ち望んでいたのだろうか。
簡単なルール説明、審査員の紹介が行われると、司会の男が「それではさっそく参りましょう、エントリーナンバー1番!」と叫び、幕が上がった。
一人目の女の子が中央に立つ。キリリッと持ち上がった瞳、ミスユニバースにも出場してそうな自信満々な顔つき。なるほど、今はチアをしているらしい。自己紹介を終えると「バレエをします!」と元気よく言い放つ。そして無音状態の中、子どもの頃からやってきたというバレエを披露した。
こんな人前で踊るなんて、と環はため息を吐く。彼女は先ほどまでの元気いっぱいな表情とはうってかわって、憂いを帯びた瞳になる。
彼女が舞っている間、しんと場は静まり、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。きっとここで見ている学生のほとんどがバレエに関して造詣を持ち合わせていない。それでもここにいる人間の心を魅了するほどの力が彼女の舞いにはあった。
小さな頃から、彼女たちは「キレイだね」「かわいいね」と褒められて育ってきたんだろうか。
なぜこんなにも自分に自信を持っているのだろう。
環は悠々と舞う彼女の姿に自分を重ね、突きつけられたギャップに落ち込む。
二人目の番になる。腰まで伸びるロングヘアの彼女は三味線を手に民謡を披露し始めた。見た目が少し派手なだけに、そのギャップに驚く。
出だしの太く響き渡る歌声を聴いた瞬間、「自己肯定感」というワードがピンっと環の脳裏に閃く。
彼女たちを一言で表すのであれば、「美人」とか「かわいい」よりそっちの方がしっくりくる。きっと彼女たちはグランプリに輝かなくても決して自分を見失わないだろう。
鼻にかかる力強い声が会場中に延々と響く。
自分のやってきたこと、やっていることは、他の人間になんと言われようとも自分で誇れるから。
環は自分を振り返る。
じゃあ、私は、今までの人生を誇れるだろうか。誰にも認められなかったとして、それでも揺らがずに自分の意のまま進めるだろうか。そもそも自分の意とは。
そんなことを考えているうちに、三人目、とうとう彼女の番になった。環の身にも緊張が走る。
彼女がステージ中央に立つ。一体彼女は何を披露するのか。
まるで二次元のような美しさ。CGと言われた方が納得する。お願いだからCGだと言ってくれ。
「国際教養学部2年 勝田エリーです」
凛とした百合のような美しさに、「きれい」と環の口からつい漏れる。
しかし隣の理仁からは何の反応もない。視線はただまっすぐにステージ上へと向けられている。
「ドイツ語の早口言葉を披露したいと思います」
少し会場から驚きのような笑いが起こり、恥ずかしそうに笑う。圧巻の美人が途端に可愛らしい女の子に変わった。
そして彼女の流暢なドイツ語が会場全体に響き渡る。
ヴェン フリーゲン ヒンター フリーゲン フリーゲン、フリーゲン フリーゲン ヒンター フリーゲン ナッハ
ヴェン フリーゲン ヒンター フリーゲン フリーゲン・・・
3回繰り返し言い終わると、照れくさそうに司会者に視線を配るエリー。
どんな意味ですか、と聞かれ、ハエが他のハエのあとに続いて飛べば、ハエはハエの後を追う、です、と恥ずかしそうに口元を押さえて笑う。
なんだそれ。ただひたすらハエがブンブン飛んでる様子を謳ってたのか。そんな透き通るキレイな声で。
会場のみんながハハハと温かい笑いを送る中、環は一人、フッと鼻から排気ガスのような笑いを吐いた。
そして視線をステージ上からおろし、前の人の背中との間にある狭い空間にぼんやりと向け、ふとある歌のフレーズを思い出す。
ファイト、闘う君の唄を、闘わない奴等が笑うだろう・・・
ああ、情けない。自己肯定どころか、奴等側の人間になっていたとは。圧倒的な美しさを前に、ただ鼻で笑うことしかできないなんて。
きっと彼女はたくさんの妬みひがみを買ってきた人生だろう。悲しいことに、彼女の気持ちよりも、妬みひがむ側の気持ちの方が手に取るように分かってしまう。生まれながらにして恵まれてる上に、たゆまず努力し続けられる人間を、いいなあ、羨ましいなあと指をくわえて見てしまう。私はそっち側の人間なんです。
勝田エリーは、やっと緊張がほどけたように肩をストンと落とし、安堵を含んだ可愛らしい表情になった。20歳の少しあどけなさも残る女の子の顔だ。
後ろの列に戻る時、風にさらりと髪がなびく。
彼女がライバルだなんて、本当にツイてない。
環は始終勝田エリーに圧倒され続け、隣の理仁は一言も言葉を漏らさなかった。
常に一般開放されてる記念館のホール。少し離れた場所にあるからか、学祭の今日も、いつもと変わらない顔をしていた。
ガラス張りのロビーに並べられたテーブルで休む。外の音は全く入ってこない落ち着いた空間に、ホッと一息つく。
「勝田エリー、キレイだったね」
自動販売機で買った紅茶を飲みながら環は言う。ドイツ語の早口言葉を披露した勝田エリーは、準グランプリに輝いた。グランプリでも全然おかしくないほど美しかった。
「キレイだったね」
理仁は葡萄ソーダを飲みながら返す。
ただ環の言葉を返しただけなのか、本当にキレイだと思ったのか、その声からは読み取れない。ただ事実を述べているだけのようないつもの調子だ。
それでも同意されると環は少し落ち込んだ。
「理仁ってどういう人好きなの」
環の問いかけに、軽く「んー」と考えてから理仁が口を開く。
「ちゃんと、頑張ってる人がいい」
頑張ってる人。それはどういう尺度で測られるものなんだろう。
あなたは14努力だから少し足りないですね、とか、試験紙が紫になったから頑張ってますね、とかそんなので測れるものではない。
天秤が一つ。右の皿に勝田エリー、左の皿に森里環。はっけよーい、のこった、で支える手が離される。
すぐさまカタンと天秤がバランスを崩す。
そんなの決まってるじゃないの、と脳内聖女。
ですよねえ。ええ、ええ、ええ、ええ、勝田エリーが圧勝ですよ。
環のもろいハートは早速ミシミシと音を立て、ひび割れの隙間から粉が舞う。
「そろそろ帰る?」
理仁は飲み干した紙コップをトンとテーブルに置いて言った。環は手の内に残ってる紅茶に視線を落とす。
ここでもし、嫌だ嫌だ嫌だ、もうちょっと一緒にいよう?さっきのミスコンも勝田エリーも全てなかったことにして、二人で学祭やり直そうよ!とグワングワン彼の肩を揺さぶったらどうだろう。
環はそんな自分の姿を鼻で笑い、残っていた紅茶を一気に飲み干す。
「うん、家帰って昨日の続きやる」
ロボットでしょうか、いいえ、環。
踊ることも、歌うことも、流暢なドイツ語を披露することもできない環には、ミジンコ論文しか立てるステージはない。それは決してスポットライトは当たらないが、博士課程までぬるぬると居続けてしまった今、環に求められているのはこれしかなかった。それは環自身も重々自覚している。
「やるかー」
理仁もそう言って立ち上がり、「はい」と環の飲んだ紙コップも回収してくれる。
なんて優しい人。
二人は盛り上がりを続けるキャンパスを背に、家路に着いた。進展はなし。
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