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信じるもの

おそろしく時間の有り余った3連休の初日に、とある長編小説を読み終えた。

西加奈子の「サラバ!」
上中下にまたがるとても内容の濃い作品を1ヶ月以上かけてじっくりと読んだ。

自己中心的で、自我の強い母親と、
「わたしを見て」の思いが奇行に表れる姉、
どこまでも優しく他を尊重する父、
の家族のもと、イランで生まれた主人公の圷歩。
母姉の対立に、どこまでも静観を貫き、
不穏な空気の渦中から退避し続けてきた幼少期。
そこから、大阪、エジプト、東京と、様々な場所で、たくさんの出会いの中、歩は大人になっていく。

この物語で終始根底にあったテーマが、「信じるもの」だ。
歩の周りの人達が各々いろんなものを信じる中で、
それらに翻弄されてきた歩は、いかなる状況においても受け身で、人生の歩みを自分では進もうとはしなかった。

他の人達が信じてきたものは、
愛する人であり、芸術であり、自らの立身出世であり、宗教的な教えである。

何も、信じる者は救われる、だとか、
宗教的な信仰の勧め、だとかの安易なものではない。

信じるものを探し求め続け、ときにいじめられ、ときに宗教に傾倒し、ときに海外を転々とした姉が、あのボロボロだった姉が、
あるとき美しい姿で、登場する。
私は、その場面が一番好きだった。
とてもスッキリとした。

あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。

姉が歩に言った言葉である。
やはり受け身では、他人に任せていては何も始まらない。
身を取り巻く困難や理不尽、危険、不甲斐なさ、情けなさ、過ちを誰かのせいにしたり、過去のせいにしたりしても意味がない。

それは、歩んでいない、ということだ。

自分にとって、なぜか偶々生まれ落ちた人生を
前に歩んでいくための標となるものを探す必要がある。

悲しいことに、この物語を読みながら、
私はそれが全くと言っていいほど頭に浮かんでこなかった。
これでは、あの姉に「芯がない!」と諭されてしまう。

出会いの中で、経験の中で、幾多の感情の中で、ただこれを信じ続ければ、と思うような存在を知り得たい(もしかすると気付いてないだけかもしれないが)。

そういう目線で、自分の人生を歩んでみるのもおもしろい。


suke

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