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デザインと無

こんにちは。アル株式会社でCCOをやっている@ottieeです。

こういう本を読みました。

常日頃、「デザインは無」と半分冗談めかして言っている(本心ですが)自分としては、「無=最高の状態」と言い切っている本書は大変興味深く、結果3周くらい読みました。

内容的には、どちらかというか人生の考え方・生き方の本で、すごくざっくり序盤の概要を書くと、


人間は「苦」がディフォルト設定であり、人類原初ではネガティブなことに敏感な方が生存確率が高かった。言い換えると、怒り・恐れ、不安などの感情に敏感な人の方が生き残れる時代だった。

しかし、生命危機に陥ることの少なく、情報量も格段に多い文化的に成熟した社会では、その本能が悪い方向に働いている。ネガティブセンサーが過剰に働いているのだ。

もちろん動物でも痛みや悲しみを感じたり、苦しみを味わうことがあるが、例えば自殺に至ってしまうなどの結果に至ることはない。

なぜ人間ばかり苦しみを引きずるのか。それは、人間が「今」を生きるだけではなく、「過去」「未来」を持ち、「自分は他者とは違う、一貫性をもった個体である=自己」という認識からである。

一貫した自己があることで、「未来」を予測し「過去」を思い出し、不要な苦しみを生み出す

お気づきだと思いますがこれを解放しようとしたのがエヴァンゲリオンでいうところの「人類補完計画」です。

「自己」があるから、なにかネガティブなことがあったときに、過去を責め、未来を憂い苦しむ。(本書ではこれを「第二の矢」という)

「自己」があるから、他者の「自己」とぶつかり苦しむ。

それであれば、「自己」を消すことができるのであれば、世の中の「苦しみ」をある程度コントロールすることができるのではないか?

そして、この本では科学的知見から、「自己は特定の機能の集合体」であることから、「自己」をコントロールすることができると主張する。


序盤はこのような感じです。

やや宗教&啓発チックに感じた方もいらっしゃるかもしれませんが、最新の脳科学や、心理学などの科学的知見を交え、禅の思想を科学的に捉えてみるなど、読み物としてもとても面白いです。

後半になるに従い、実践的な思考法や実践方法が紹介されているので興味のある方はぜひ。


デザインと無

デザインに自己は必要ない

さて、ここからがデザインの話なのですが、あくまでも個人的なデザインの信条として「デザインは無に近ければ近いほど善い」というのがあります。

「デザインは無を指向する」
「デザインは溶けて透明になる」
「本当に良いデザインは誰も良いデザインとは言わない」

こんな言い方とかでよく言うのですが、これが正しいかは一旦置いておいて、デザインにおいても、今回紹介した本でのべられている「自己」「自我」を消すということとよく似ているなと思いました。

心理学的にいえば自我とは「自分が考える自分」であり、自己とは「他者との関係のなかにある自分」という違いがあるそうです。

https://riceball.network/arila/2021/07/21/fumiki/12351/#:~:text=%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%80%8C%E8%87%AA%E6%88%91%E3%80%8D%E3%81%A8%E5%90%8C%E3%81%98%E3%82%88%E3%81%86,%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

これはユーザーインターフェースでも、広告でも建築でも工業でもなんでもそうだと思うのですが、「形態は機能に従う」というように、「デザイン自体が鼻持ちならない自己主張」をするのはよくないと思っていたりします。

メッセージを明確に伝えているデザインはどちらでしょうか?

デザインというのはコンテンツ、つまり「誰かが必要としているなにがしかの価値(自覚的であろうが無自覚であろうが関係なく)」を100%届けるために施される技法であり仕事であり

そのために、それを行うデザイナーは限りなく自己(場合によっては自我)を抑えデザインを遂行することが理想だと思ってたりします。

無我の境地と言ってしまってもいいかもしれません。

デザイナーの自己や自我を100%発揮することが求められることそのものが価値、ということもあることは重々承知です。

ですが、デザイナーの仕事における自己や自我が、コンテンツの本質を邪魔するのであればデザインは無価値です。むしろ邪魔です。


料理が好きなので、よくデザインの話で料理の例えをだしてしまうのですが、たとえば、世界最高峰の牛肉が200g手に入ったとして、どう手を加えましょう?

お肉食べたい

焼いて凝ったソースをかけるのもいいし、岩塩で食べるかトリュフ塩か、胡椒はレッドかブラックか…付け合わせをいくつも用意するのもありでしょう。火入れは蒸すという手もあれば、ポワレや低温調理も選択肢にあがるでしょう。さらに熟成が足りないと思ったら数日さらに冷蔵庫に寝かすかもしれません。

要は、コンテンツを活かすために手法(=デザイン)を取捨選択しているだけで、そこに「自己」も「自我」も必要ないのです。


また極端な例になってしまいますが、僕はプライベートでは白と黒でデザインやアートが大好きです。これは強力な自己であり、自我であるとも言えます。

例えばファミリー向けのECサイトのオーダーが入った時に、この自己と自我が作用してしまったらどうしましょう。容易に無味乾燥である意味尖った ECサイトのTOPデザインが出来上がってくるでしょう。

自己・自我に影響されていないか、コンテンツを活かすのに適切な手法を取れているか、「変な」自己主張がされていないか常に意識的でありたいものです。

デザインの本質とデザイナーと

「自己」も「自我」も否定しているわけではありません。それがうまく作用し、コンテンツを活かすことだってあるはずです。

ただ、初めから「自己・自我」を入り込ませようとデザインを開始することには危惧感があります。行き過ぎると、それはコンテンツを喰ってしまうアートになってしまうことがあるからです。

デザイン自体がアートになるという例ですが、デザインの本質からは、はずれているのかなと思います。


デザインの本質、という話を書いたので余談的に書きます。

デザインというのはコンテンツ、つまり「誰かが必要としているなにがしかの価値(自覚的であろうが無自覚であろうが関係なく)」を100%届けるために施される技法であり仕事であり

ottiee.me

と先ほど書きましたが、では、デザイナーとして一番大事な資質というかスキルはなんでしょうか。

個人の意見となりますが、それは

「本質を見抜く、抜き出す」

能力だと思っています。

複雑に入り組んだ事象から1番大事な本質を見抜くことが大事
  • そのコンテンツの本当の価値は?

  • その人が、ユーザーが何を欲しがっているか?

  • 何を実現したいのか?

  • 本当に成し遂げたいことは違うのではないか?

  • ユーザーにとって価値はあるのか?

あえて「課題発見」能力とは書きません。「本質を見抜く、抜き出す」能力です。

デザインは価値を100%届けるために施される技法であり仕事でありますが、まず届けるべき本質を間違えると、後のプロセスが全て間違えてしまうので、大事なのはここだと考えています。

この本質を見極めるという段階においても、「自己・自我」をどれだけ「無」にすることで余計なバイアスも防げるのではないでしょうか。


おわりに

もちろん僕個人としても、デザイナーとして、完全に「自己」「自我」を消すことができているとは思っていません。当然「無我の境地」になんて至っていません。完璧はないことは理解しています。

ゴールがないからこそ、僕はデザインにおいて、無=最高の状態を目指しているのです。

それではまた!

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