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資本主義は、実はコミュニズムの基盤の上に成り立っている? 『ここにある社会主義』から第1章を無料公開(2/3)

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第1章 ここにある社会主義

社会主義はどこにでもある

 読者のみなさんのほとんどは「社会主義」について、自分たちの生活とは異質なものであるというイメージをもっているでしょう。人権や民主主義を推進している進歩的な人々でも、「社会主義」はそれらを抑圧する体制であるという印象を抱いていることが少なくありません。今日の日本では「社会主義」に対する否定的な印象がとても強いようです。
 図表1-1は、ある調査会社が2018年に「現在、社会主義の理念は社会進歩にとって大きな価値をもつか」というアンケートを、先進国から途上国まで28か国を対象に実施した結果です。「そう思う」と答えた割合は、日本は21%で最低です。日本人にとって社会主義は縁遠いものなのです。
 しかし他の先進国ではスウェーデンが51%、イギリスが49%、ドイツが45%と高い水準です。資本主義の盟主であるアメリカでさえ、「民主的社会主義者」を自称するバーニー・サンダースが2016年の民主党大統領候補に名乗りを挙げ、支持を集めました。2020年に実施された別の調査では、アメリカのZ世代(1997年〜2012年生まれ)の若者の49%が「社会主義に好意的」と回答しています。このように日本を除く先進国では、社会主義への期待が高まりつつあります。

本書2ページより

 歴史をふり返ると、西洋では近代的な社会主義または共産主義の思想は、トマス・モアが16世紀初めに執筆した『ユートピア』のように、虚構としての理想社会を描写することから始まりました。ユートピアとは、ギリシア語で「無い」(ou)「場所」(topos)、すなわち「どこにもない場所」という意味です。
 モアの思想は、18世紀から19世紀にかけての社会主義者であるロバート・オーウェンらに受け継がれていきました。その後の時代のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、オーウェンらの社会主義を「空想的社会主義」(utopischer Sozialismus)と呼びました。なぜならオーウェンらは、理想郷を現実社会の中で構築しようとしたからです。オーウェンは理想郷を実際につくりだそうとしましたが、それは資本主義社会の現実と乖離したところでの、純粋培養の実験のようなものでした。
 マルクスとエンゲルスは、自らの社会主義を「科学的社会主義」(wissenschaftlicher Sozialismus)と名づけました。ドイツ語のWissenschaftは、科学の他に「学問」をも意味しますから、科学的社会主義という言葉は、何か難しい理論体系のような印象を与えてきました。加えて、『資本論』をはじめとするマルクスの著述が難解なことは、近寄りがたい印象をいっそう強いものにしました。
 しかし、彼らが自らの思想体系を「科学的」社会主義と呼んだのは、資本主義の中に社会主義の萌芽が現実に存在し、それを発展させることによって共産主義社会が可能になると考えたからです。つまり、ここでいう「科学的」は、空想に対して「現実に存在する」という意味で使われたのです。
 たとえば、マルクスが共産主義社会へ移行するための「必然的な通過点」(『マルクス=エンゲルス全集』第25巻、557ページ)と考えた株式会社は、資本主義社会にはどこにでもあります。社会主義は遠い将来の話でもどこか特殊な国の話でもなくて、「どこにでもある」というのが、マルクスたちの趣旨でした。

 本書で私が主張したいのは、社会主義が「どこにでもある」こと、もしくは「すぐそこにある」ことです。共産主義社会は、歴史的には人類誕生の当初から原始共産主義として存在しましたし、共同体の原理は、今日の私たちの社会にも息づいています。しかも最も重要なことは、資本主義社会が共産主義社会の基礎を着々と準備していることです。したがって社会主義は、決して私たちにとって疎遠なものではなく、どこにでも見いだせる身近な存在なのです。

社会主義と共産主義の意味

 「社会主義」あるいは「共産主義」という概念が、そもそも何を意味するのかを考えましょう。社会主義はsocialismの訳語です。ソーシャル(social)に、「主義」を意味するイズム(ism)がついたのが社会主義です。ではソーシャルとは何でしょうか。
 社交ダンスは、かつて英語で使われていたソーシャル・ダンス(social dance)の翻訳語です。一人で踊るダンスに対して、ペアで、すなわち人と人が一緒に踊るダンスがソーシャル・ダンスです。コロナ禍の中でソーシャル・ディスタンス(social distance 正確にはsocial distancing)という言葉が使われました。これを「社会的距離」と訳してもピンときません。「人と人の間の距離」と言ったほうがわかりますね。
 つまりソーシャルには「人と人の関係」という意味があります。これにイズムがつくと「人と人の関係を大切にすること」となります。これが社会主義の本来の語義です。
 人間はもともと社会的存在ですから、人間が人と人の関係を重視するのは当たり前の話です。つまり、この意味での社会主義は、人間にとってごく普通の考え方です。

 社会主義とよく似た使われ方をする言葉に共産主義がありますが、現実政治では、社会主義と共産主義は別の概念として使われることもあります。第一次世界大戦後、ソ連を支配する政治勢力を「共産主義」、西側先進資本主義国の社会主義運動を「社会主義」と呼ぶ方法が広く使われるようになりました。しかし、これは本質的な分け方ではありません。
 共産主義はコミュニズム(communism)の訳語です。コミュニズムの前半のコミューン(commune)は、動詞としては「親しく交わる」、名詞としては「共同体」を意味します。同じ系列の言葉に、コミュニティ(community)、コミュニケーション(communication)があります。これらは人間関係を表す身近な言葉です。
 ですからコミュニズムも、ソーシャリズムと同様に「人と人の関係を重視する考え」という意味です。社会主義も共産主義も、人々が気軽に社交しコミュニケートできる社会をめざすという点では全く同じです。この二つの言葉は、上述のように区別される場合もありますが、本書では同じ意味を表すものとして扱います。

基盤的コミュニズム

 「どこにでもある社会主義」というコンセプトを本書と共有するのが、人類学者でアナーキストであるデヴィッド・グレーバー『負債論』で提示した「基盤的コミュニズム」(baseline communism)という議論です。
 グレーバーは、まずコミュニズムを「『各人はその能力に応じて[貢献し]、各人にはその必要に応じて[与えられる]』という原理にもとづいて機能する、あらゆる人間関係」と規定します(同書142ページ)。
 グレーバーはコミュニズムを人間関係として捉えます。これは私が先ほど、社会主義や共産主義を広く人間どうしが仲良くすることとしたのと同じ理解です。そしてさらにグレーバーは、コミュニズムは「生産手段の所有ともなんの関係もない」と言い切ります(同143ページ)。
 この点は私とは意見が異なります。「各人にはその必要に応じて」与えられるという必要原則が成り立つような人間関係を可能にするためには、生産手段の社会的所有が不可欠であると私は考えます。とはいえ、さしあたってコミュニズムを「必要原則が成立するような人間関係」と捉えることには、私も異論ありません。

 グレーバーは次のように述べます。

「実に、コミュニズムこそが、あらゆる人間の社交性[社会的交通可能性]の基盤なのだ。コミュニズムこそ、社会を可能にするものなのである。誰に対しても、その人が敵対関係にないとすれば、少なくともある程度は『各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて』の原理にもとづいて行為することが期待できる――そうした想定は常に存在している。たとえば、ある場所への行き方を知りたい者がいる、べつのある者は道を知っている場合などである」(同144ページ)。

デヴィッド・グレーバー『負債論』酒井隆史監訳、高祖岩三郎、佐々木夏子訳、以文社

 このようにコミュニズムを広義に捉えると、その適用範囲はきわめて広くなります。家庭・職場・公共空間において、誰かが助けを必要としていて、自分に助ける能力や余裕があるとき、ほとんどの場合に私たちは相手を助けます。しかもその際に、何の見返りも求めないことがほとんどです。道を歩いていて、知らない人から「駅はどちらですか」と尋ねられたときを想像してみましょう。「教える代わりに何をくれますか」などと交換条件をつけたりは、普通はしませんね。

 人に道を教えてあげることなどは、お金や労力がかからないから誰もがそうするのであって、このような行為をいちいちコミュニズムだなんて大げさな、と思うかもしれません。しかし、このようなささいな親切心や、他人に道を尋ねれば正しい道を教えてもらえるだろうという緩やかな信頼がない状況を考えれば、それがいかに重要かがわかると思います。
 もしも相手が敵対関係にある人物なら、道を尋ねられても教えたりしないでしょう。資本主義化が進んだ日本では、競争主義が浸透して諸個人が分断され、孤立化が進行しました。学校や職場でもいじめやハラスメントが横行し、ささいな親切や緩やかな信頼さえ消えつつあります。そうなると、私たちは学校や職場に行くことがとても苦痛になってきます。
 グレーバーによれば、基盤的コミュニズムは「商業さえも含むあらゆるやりとりのうちで、ほぼ常に機能している」(同153ページ)。「あらゆる社会システムは、資本主義のような経済システムでさえ、現に存在するコミュニズムの基盤のうえに築かれているのだ」(同143ページ)。基盤的コミュニズムは、市場経済や資本主義を含むあらゆる社会システムの基盤に存在すると彼はいいます。

 このようなコミュニズムの位置づけは、マルクスの史的唯物論とは異なります。マルクスは原始共産主義、古代奴隷制、中世封建制、資本主義、そして共産主義というように、社会システムが歴史的に発展すると捉えました。これに対してグレーバーは、コミュニズムがこれらすべての社会システムの基盤に存在すると考えます。
 資本主義や市場経済を肯定する人は、古代に文明が誕生して以来、人類は貨幣を生み出し、商品交換をおこなってきたとして、市場経済の普遍性を主張します。そして、過去に共産主義社会をめざした試みは、計画経済を遂行するために市場経済を廃止しようとしたところに困難があったと判定します。
 ところがグレーバーによれば、普遍的なのは市場経済ではなくて、逆にコミュニズムのほうです。コミュニズムが基底にあってこそ、商品の取引も可能になるのだという論理です。この理解からすると、資本主義社会とは、コミュニズムを基盤にもちながらも、この原理のおよぶ範囲を最小限にした社会であるとも捉えられます。
 私はマルクスの史的唯物論を支持していますが、コミュニズムがあらゆる社会の基盤にあるという主張については同感です。

(3へ続く)

著者について

松井 暁(まつい さとし)
1960年生まれ.専修大学経済学部教授.専門は経済哲学,社会経済学.
主な著書に『自由主義と社会主義の規範理論――価値理念のマルクス的分析』(大月書店,2012年),Socialism as the Development of Liberalism: Marxist Analysis of Values(Palgrave Macmillan, 2022). 主な訳書に,G・A・コーエン著『自己所有権・自由・平等』(共訳,青木書店,2005年),F・カニンガム著『民主政の諸理論――政治哲学的考察』(共訳,御茶の水書房,2004年).

『ここにある社会主義』目次

まえがき
第1章 ここにある社会主義(←イマココ)
第2章 社会主義を捉える視角
第3章 自由主義と社会主義
第4章 生産手段・労働・分配
第5章 共同体・国家・市場
第6章 人類史からみた社会主義
第7章 「社会主義」を自称した国々
第8章 競争と共同
第9章 生産の社会化
第10章 社会民主主義
第11章 社会主義の予兆
第12章 まとめ


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