孤独な辺境監視員

いつもの変わらない乾いた風が強く吹くと、火星中の岩陰から陰鬱な囁きが聞こえる。まるで「いつか湖を連れてきてやる」と言っているみたいだ、と初老の男は思う。湖が現れるどころか、雨一滴も降らないけれど。

毎日のように彼はベランダで熱いコーヒーを飲んで、ひとりで朝の時間を過ごす。妻もいない。今さら昔のような恋愛をしたいとも思わない。そして、ひとりで笑って、誰に語るともなく創作話を物語るのが日課である。物語は風景に吸い込まれて、ひとつも残らない。だけど、彼は惜しいとも思わなかった。

見渡す限りの砂漠には、オアシスらしき場所も、植物一本生える余地もなかった。植えたとしても根づくことはない。井戸を掘ろうとしても地下水脈は皆無だった。乾燥しきった風景は、俺たちに係わらないっでくれと表明していた。それでも初老の男は架空の世界譚を語ることを、来る日も来る日もやめなかった。

疲れて黙ってしまうと、静かに双眼鏡を覗きはじめる。越境者を見つけるのが彼の仕事だ。監視作業はとても暇だった。それなのに彼は三十数年をこの仕事に費やした。そろそろ世代交代が必要な、避けがたい老いが近づいていた。

だが、彼にとって時間はいくら過ぎても過ぎ尽くされず、死は訪れないものと信じていた。

*

時折、水平線に紐状の小さな影が左右に動くのを確認できた。その奇妙な陽炎は、単なる気象現象だと一般に言われる。初老の男はその通説に疑問を抱いていた。そんな筈はない、と。

しかし、彼は真相について口を閉ざしていた。あのタコ野郎だけが俺の友達なんだ。そんな突拍子もない理由が、もちろんお役所に通じる訳がない。彼も半ばただの陽炎だと思い込んでいる節がある。信じたり、信じなかったりで揺れ動いていた。初老の男はタコ野郎を双眼鏡から見ているだけで、実際に対面した経験もないのだ。

タコ野郎はとても恥ずかしがり屋だ、と彼は勝手に思い込んでいた。

*

ある深夜、小屋で目を覚ました初老の男は、屋外から響いてくる音を耳にした。少し離れたところでから、静かな波の音がした。

ここは大西洋の沿岸の、真夏に毎年泊まったログハウスなのか?と彼は寝ぼけまなこで窓辺へ歩いた。

「ざざっ、ざざっ」と聞こえるほうに目をやると、広がる砂漠の風に漂う無数のタコ野郎が、空中で体を寄せ合っていた。群れの発する音が、波の音にとてもそっくりだった。

夜空にはこうこうとフォボスが輝いていた。

よくあるそういう夜なのだ。きっと今晩はタコ野郎たちの繁殖期だ。恥ずかしがり屋の彼らも、そんなことを言っていられない。哲学や思想を論じて初老の男のように閉じ籠る奴もいるだろうが、圧倒的多数で彼らは集まってきた。地球でも蟹や蛾が一斉に集まることがある。それと変わらない。初老の男はカレンダーに印をつけた。来年もあるであろうこのイベントを忘れないために。

*

翌朝、初老の男が目覚めると、真っ先にお湯を沸かし、熱いコーヒーを淹れた。そして毎朝のようにベランダで飲みながら、物語を語るつもりだった。

ふとカレンダーに目を向けると、昨日の欄にタコ野郎に関するメモがあるのを見つけた。初老の男は昨晩の光景をはっきり思い出した。

砂漠はいつもの見慣れた代わり映えしない光景だった。どこにも変わったところはなかった。

冷めないうちにコーヒーを味わってから、初老の男は遠くを眺めながら静かに語り始めた。


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