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運河にて

第一の証言

やわらかい物腰の言い回しの男の声が、私に尋ねてくるのでございます。

「この辺りに、水辺やその類がありはせぬか?」と。

この私は、周囲を警備する者でありますから、近くを流れる運河のことは目を閉じても案内できるほどでございます。ですので、何を疑ったり訝ることもなく、その先を右に曲がると流れるイリュミナシオン運河のあることを、ただ教えたのです。それだけでございます。

さて、その尋ねる者のことでございますが、目深に被ったつば広の帽子といい、高く襟を立てた服装といい、どこか身を隠す雰囲気がありまして、決して目を見せていただけない様子でした。指先は革の手袋に包まれて、真昼の猛暑を知らぬかのようで、その異様さは透明人間の仮装姿を連想させたほどでした。

そう、彼が立ち去った後の空気に、かぐわしいラベンダーの香りが混ざっていたことを覚えております。暑すぎる太陽の照りつけるなかで、赤い砂の匂いばかり嗅いでおりますと、そうした美しい香りに敏感になってしまうものです。

ただ、彼の堅牢ないで立ちと余りにかけ離れた香りだけに、忘れることができませぬ。それに、すぐのちに起きた悲鳴が、私の記憶に鍵をかけて、忘れることのできない日と化したわけでございます。

第二の証言

私はイリュミナシオン運河で、船頭を営む者でございます。もう二十年も渡しをしておりまして、この運河の良いところ、悪いところを知り尽くしているつもりでした。その日までは。

いやはや、知るということは、知らないことへの橋渡しみたいなものでございます。そのことを思い知らされたのが、この度の「変身」事件だったのです。

向こうを急いで歩く男の姿が、運河目指して近づいておりました。その先には船乗り場はなく、ただ運河に身を投げるしかない状況でした。これは入水でもして辛い思い煩いを一掃しようとしているのではなかろうか、と私は咄嗟に考えたものです。こうしてはいられない、と私は後先も考えず一気呵成に、男に向かって駆け出しておりました。

「待ちなされっ」と大声で彼の体を掴みますと、ほのかにラベンダーの香りがいたしました。そして、すでに水に漬かっている片足が、象の足のように大きく膨らむのが見えました。人というものは不思議なもので、目の前で想定外のことが進んでいたとしても、それは解決可能な当たり前の事柄だと思ってしまうもののようです。象の足はさらに膨らんで、石に行き当たった根菜のように、数本に枝分かれしていきました。それでも私は日常茶飯事の事象が目の前で展開している気がしていたものです。今思えば、おかしなことでございます。

何にしがみついているのか理解不能な大きなものは、私にこれまで見たことのない火星の地平線を見せてくれました。うっすらと大気の層が包んだ、美しくも頼りなげな大地でした。船頭として運河の水平線しか見てこなかった私です。これほど薄っぺらな世界で、まるで支配者のように生きていたことが、嘘のようでした。知らないことは、知ることへの楽しみを得るステータスみたいなものなのでございましょう。

気づくと、私はいつもの舟に寝かされていました。舟の周りには人だかりができて、誰もが「よくご無事で」と声を掛けておりました。空高くつかまっていた私が、どうやって地上に無事戻って来たのか、何一つ思い出すことができませぬ。ただ、地平線の美しさだけが、記憶に焼きついております。

第三の証言

まだ私はうっとりしております。申し遅れました、私は運河の貝を捕る海女でございます。素潜りしては水面のたらいに獲物を入れ、また潜るのですが、ふと大きな波に飲まれしまいまして、上を水面下から見上げますと、見慣れぬものが立ちはだかっているらしいのです。

この緊急事態に、海女の息の長さを武器に、しばらく水の底に身を潜めていることにいたしました。奇妙なその姿はさらに大きくなっている様子で、得体の知れぬ現象が生じていることは明らかでした。ただ、恐ろしいという感情だけは、どこにも生まれてはいませんでした。

水深は次第に浅くなっていました。このままでは運河の水源の確保が心配になってきます。イリュミナシオン運河の水源は貴重な湧き水だけですので、水が失われてまた満たされるまで、半世紀は必要だといわれております。この一帯は水不足のために、移住を余儀なくされるだろう。

「変身」を遂げた者が水を吸収していたことは、確かなようでございます。水底の私も、どこかに引っ張られる思いがいたしました。そしてその勢いがさらに激しくなりますと、石ころ共々に私も流されてしまい、大きなものに吸い込まれてしまったのです。

さまざまなものが大きなものに吸い込まれておりました。火星のありとあらゆる魚貝類、大小さまざまな石、海藻類、船、灯台にいたるまで、その中に漂うておりました。はい、息でございますか?不思議なことに息継ぎをしていなくても息ができたのでございます。まるで鰓呼吸の気分でした。これは海女にとって至福のひとときでございます。

ふと、私は私という意識を失って、何だか分からぬ大きなものになっておりました。吸われたものと一体化したという表現が、一等相応しいのかもしれませぬ。

数億年前から変わらない、懐かしい景色を見下ろしている気がしていました。そして私たち、そう私は単独ではなく複数の何かの集まりなのですが、私たちのことを抱きしめている、蟻のように小さな存在に気づいたのです。とても小さいのですが、彼もまたこの星の脆さを知り、美しさに酔い痴れている様子でした。そして私たちを救うために数千メートルの上空までしがみついていることも、察することができたのです。

このまま成長を続けることを、ずっと昔から私たちは望んでいました。けれども、この純真無垢な兄弟を宇宙の彼方に連れ去ることは、あまりにも恩知らずなことだと私たちも考えたのです。結局、私たちはいくつかの提案を退けて、最善の方法、すなわち変身をあと数万年延期することに決着したのでございます。取り敢えず、運河の水やら大小の石やらをすべて吐き出し、美しい兄弟を舟に戻すことにいたしました。

気づいた時、私は運河の岸辺の鳥の巣の脇に、ラベンダーの香りを漂わせて、胎児のように丸まって寝転がっておりました。それまでの一連の記憶が事実かどうか、調べる術もございません。ただ、知っていることをありのまま、伝えた次第でございます。

そう、最後にひとつだけ。私が私たちだった時、このようなことを私たちから囁かれておりました。「この惑星に何を求めても仕方ない。いつかは平坦に変わり映えしなくなる時が、きっとやってくるだろう」と。

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