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近似猫たち

何匹目のタマだかわからなくなってきたけれど、またタマが現われた。タマはとても人懐っこい猫で、地球でずっと可愛がっていた野良猫だった。模様がどこか世界地図にそっくりで、ヨーロッパのドイツの辺りに鼻があるという具合だった。

火星に来るとき、よっぽど連れて行こうかと悩んだけれど、飼い猫でないことと、渡航のペット料金の高さを理由に諦めた。こんなのスネ夫クラスの家じゃないと、ペットを連れていけない。

「タマ、さよなら、ごめんね」そう言って、最後のご飯は高級カツオ節をあげた。老舗のちょっとごつい感じのするやつ。わたしだって食べたことない。

だから、ほんとのタマは火星にはいない筈なんだ。今でも地球の物蔭でトカゲを咥えたり、自由気儘でいる筈なんだ。それなのに、火星の古ぼけた一軒家を借りてぼんやりしていたら、「みゃあ」とやって来た。

嘘だろ、って思ったよ。

*

見ても触れてもそっくりで、わたし連れてきちゃったかなあ、なんて数日は呑気なこと考えていた。惑星間移動中の荷物のどこにも、ノミ一匹すら忍び込む余地なんてないのに。

再開したタマはよく食べた。川魚を頭の骨までガリガリ齧った。変だ。タマは小食で川魚は必ず残していたのに。食べる量や好みは、一生でそんなに変わるものじゃない。

だから、こいつタマじゃないな、とわたしは疑い出した。じゃあタマじゃなくて、何者なんだろう?と詮索もした。

こういうわたしってイヤだなと思う。疑い出すとわたしはタマらしき猫に冷たくなった。すり寄られてきても、無視した。「みゃあ」と鳴いてきても、振り向かなかった。でも、そのうち気配が消えて、気が気でなくなり「疑ってごめんね」と反省した頃には、タマらしき猫はいなくなっていた。

だから、その後一か月ほど、わたしはなにもする気が起こらなかった。

あれがタマでなくてもいい。猫が「みゃあ」と現れるだけで十分なの、と何度も心の奥底から謝った。

*

仕事から帰ると、一ヵ月ぶりに玄関脇から「みゃあ」と声がした。足もとにタマらしき猫が尻尾をピンと立てて現れた。「タマ」と呼ぶと「みゃあ」と鳴き返してくる。尻尾を触るとわたしにすり寄って来る。

やっぱりタマじゃないな、とわたしは感じた。人懐っこい性格とはいえ、タマは名前を呼んでも愛想鳴きなんてしない。それに、尻尾を触ろうものなら、容赦なく引っ掛かれる。でも、今度はタマではなさそうなよく似た猫の様子を窺ってみようと思った。

タマではなさそうなそのよく似た猫は、このあいだのタマらしき猫とも少し様子が違った。以前と同じ猫だという思い込みが、常に邪魔をした。だから、結局、タマではなさそうなよく似た猫も数日で姿を消してしまった。

こんなことが何度も何度も繰り返された。タマ(とその近似猫)たちが悪いのではない。あくまで、私の作り上げたタマの幻想が、タマの近似猫たちにイヤな思いをさせてしまっているだけなのだ。

*

何匹目のタマだかわからない猫の横で、わたしは柚子風味のクッキーを齧って日曜の午後を過ごしていた。明日の仕事は火星でのキャリアを左右する重要な案件だった。だから、わたしは少し憂鬱で、少し塞ぎ込んでいた。目を閉じて喉を鳴らすマイペースな相方が、とても羨ましかった。

火星に来て、もう五年が経った。

わからないものに対して拒否しなくなったこと、それはわたしの成長だと感じている。タマだかどうかすらはっきりしない、何匹目のタマだかわからないその猫のことを、わたしはもう疑ったりしない。異質なものに対して距離を置くことを、正答だと主張することもなくなった。逃げることは相手を傷つけることと同じだ。一緒に語り合い、寄り添うことのほうが大切だと思う。

二杯目のカモミールティーを注ぎながら、彼氏からもらったクッキーがビックリするほど美味しいことに、わたしはとても感心した。うれしかった。手作りだと言っていたっけ。

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