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夢の気遣い
ふらっと立ち寄ったのは、数年ぶりの通い慣れた店だった。ドアベルの音は相変わらず昔と同じで、時間の隔たりが埋められたような錯覚がした。「いらっしゃい」と奥からする声は、期待したのとは別の響きだった。
いつもそこで目が覚める。奥にいる筈の声の主が、どんな表情をしているのか、見ることは一度としてなかった。また、夢を見るたびに、夢の時間はレコード盤のように元に戻ってしまう。以前の夢でどうだったかとか、今度こそこうしようとか、そういう思いはきれいさっぱり消えている。
あの店には私の初恋の人が住んでいた。でも、彼は私を覚えていなかった。対人関係なんて希薄なものだと分かっていたけれど、世の中って無慈悲なものだなと最初はすごく傷ついた。何度か通ううちに、昔のことは昔のこととして切り離そうと思うようになった。それこそが初恋の次のステップだと希望を持てるようになった。
日に日に彼は痩せていった。アンティークのこと考えていると飯も喉を通らないんだ、と彼は微笑んで、店長らしく襟を正した。立派じゃん、と私は普通に感心した。それから何ヵ月もしないうちに、彼は倒れて帰らぬ人となった。
私は泣くこともできないほど、呆然とした。
何もない部屋に少しだけ増えたアンティークの小物だけが、私の手元に残った。結局、私は初恋の人に何も言い出せなかった。そして、しばらく塞ぎ込んでから、とても遠い火星に仕事を見つけて、住み家を移した。
お店の夢は、月に数回ほど定期的に見た。亡くなってしばらくして、お店の常連さんたちで集まって、ささやかなお別れ会も開いたのに。まだ彼は成仏していないのかな?おかしいな。私から彼の気持ちが去らないまま、あの頃のままの世界が流れた。
でも、そのうち気づいた。
夢の前に決まって現れるのは、蛸を逆さまにした姿の生き物によるモノローグだった。メッセージの意味はまったく理解できなくて、逆さまの蛸はたぶん宇宙人っぽい。敵意はまったく感じられなかった。それに、夢の奥の部屋から聞こえる「いらっしゃい」の声が、逆さまの蛸の声音にそっくりだった。
わかっているよ。
私は火星人の気遣いに、涙を流していた。
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