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果ての楽園【SF短篇】

隊長にとっての火星は、深い眠りから覚めた妖精みたいに、可憐で壊れやすいものだった。そこに人間たちが生活圏を拡大しようなんてことが、果たして許されていいのか?そんな罪の意識が毎日ふつふつと湧いては消えてゆく。

だが、これは宇宙開発の今後を左右するミッションだった。彼ら乗組員ひとりのメランコリックな言動で、人類の移住計画が左右されるべきではない。乗組員数名と、地球上の研究者たちとの数の勝負は、するまでもない。もし、都合の悪い結果が現れたとしても、数名の乗組員は百億人の代表として生贄になる覚悟も必要だった。

ほかの乗組員の感想を、すでに隊長はミーティングで非公式に共有していた。公式にしなかったのは、彼らの表情がすべてを語っていたからで、「来ちゃったものはしようがないけれど、さて、困りましたね」と、どのメンバーも口にするのだった。まるで悪戯を注意された五歳児のように心の底から「本当は引き返したいんです」と口をそろえて言うのだった。

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生きるために建造した居住用ポッドは、とても申し訳なさそうに岩場の影に設置された。水も食料も一年分持参して来ていたが、安全な地下水の発見と火星の土を耕した実験畑からの収穫とで、とうぶん食料に困ることもなかった。電力も太陽光発電で十分まかなえた。

これほど環境に恵まれていながら、乗組員たちの居心地の悪さは相当なものだった。なにかが変だった。この気持ちを地球の百億の人たちに説明するとしても、彼ら自身でもうまく言葉が見つからなかった。

やがて、するべき新たな作業がなくなった。実験棟を増やしてもよかったが、地球から指摘されるまで彼らは取り組む気分になれなかった。実験を通して火星開発中止の口実が知れ渡るのなら、彼らは喜んで進んでおこなっただろう。だが、この計画はすべて結果ありきで進んでいた。

あとひと月もすれば後続の乗組員たちが到着することになっている。今度の人数は百倍、隊長たちが火星に到着して現地調査に取り組む数週間前には、すでに地球を出航していた。いっそ「火星人たちがうようよしてます」と驚かせて追い返したい気分だった。

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火星は人類にとっての果てだった。それは言葉通りだった。果てには果ての特権があって、果てでない本来の生活圏からの支配や影響を受けることは一切ない。そこに多数の住民を移住させてしまうと、新たな世界を一から組み立て直さなければならなかった。

それは簡単なようで大変な作業だった。人類の歴史がこれまでたどってきた成功や失敗、繁栄や憎悪、といった生死を左右する出来事を一切経験することなく、この惑星は世界を構築していくことになる。

そんなことが到底無理だということを、乗組員たちは数か月のポッド生活で十分すぎるほど味わった。地球の延長線上に生活圏を築くことができないと気づいた以上、彼らのテラフォーミングへのモチベーションは益々下がる一方だった。

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ある日、菜園の盛り土をしていた隊長が、突然眠気に襲われて座り込んだ。眠れる状況ではなかったものの、少しだけ睡眠状態に落ちて夢を見ることになった。

火星はどこもかしこも、大人や子どもの姿の天使が舞う場所だった。中世の神学者がこの様子を目の当たりにすれば、天界にさまよい込んだと書き記すだろう。だが、隊長にとってのその光景は、異なる生態系の繫栄する世界でしかなかった。天使らしき者たちとの意思伝達がとれるでもなく、あらゆる身振り手振りが彼らに対して意味をなさなかった。

目を覚ました隊長は、何も飛んでいない火星の空を見上げた。ついさっき見た夢のことはすっかり忘れていた。何層にもレイヤー化した空間の裂け目が地上十メートルの場所にあって、さまざまな知的生命体が謳歌する世界があったものの、彼は気づくことがなかった。ただ、いい眺めだと感心するばかりだった。

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