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三滴の水

「そうですね」と火星人は言った。とても暑い日で、もちろん火星は連日のように暑かった。

砂漠で行き倒れていたところに、こんなにみずみずしく漂う火星人と出会うなんて、と僕は皮肉に思った。

白桃の皮をつるんと剥いたら、中から出てきそうな顔をした火星人だった。

たまりかねた僕は、今が異星人との遭遇だという一大事はさておいて、「喉がからからに乾いています。飲み水はありませんか?」とかすれた声で言った。

「そうですね」と言ったままの火星人は、困ったように頭を掻きながら、細長い筒を懐から取り出した。ステンレスのような光沢をもつ筒は、水筒というには細くて、あえていえば試験管に近い形をしていた。

「この筒の中に水が入っています。そして、とても圧縮されています。ただし、あなたに差し上げることができるのは、このなかの三滴だけです」

異星人と言葉が通じていることについて、僕は構ってはいられなかった。火星人の提示した「三滴だけ」という条件の厳しさに、全意識が向かった。わずか三滴だけ?それだけの水滴を舌に垂らしたところで、渇きは癒されないだろう。逆に狂わんばかりに渇きが倍増しそうだ。

それなら、いっそ力を振り絞って筒ごと奪い取ってしまおうか。筒を奪い取ってしまえば、少なくともこの渇きの痛みは和らぐはずだ。

力づくで筒を奪えば、火星人の親切を踏みにじる結果になってしまう。このことを発端に、とんでもない騒動や戦争に発展するかもしれない。

だが、この程度の弱そうな火星人なら、簡単にやっつけてしまえないか。息の根を止めて、相手を砂漠に埋めてしまえば、僕は救われるのではないか。

喉の渇きのなかで僕は朦朧としながら、水のこと以上に、むしろ火星人との戦いのことに心がとらわれだした。どのように組み伏せて、どのように筒を奪うか、そのことで頭がいっぱいになった。

目的のためなら、どんな手段を使ってでも構わない。正しいことの判断が、もう判断できなくなっている。

そのことに気づいた僕は、猛烈に愕然とした。愚かなことだとつくづく思った。ここで火星人と争うことで、あらゆるものが汚れていく気がした。

すっかり落胆した僕は、正反対にとても幸せな気持ちだった。とても喉がからからで、とても苦しいのに、僕は三滴の水滴をしっかり味わいたいと望むようになった。

「ありがとう。三滴で十分です。どうか、いただけますか?」

火星人はゆっくりうなずいた。そして彼が手に持っていた浮き輪のようなものを、僕の体にしっかり巻き付けた。

そして「いいかい?」と、唐突に地面に水滴を垂らし始めた。「僕の舌じゃなくて、どうして地面に?」と問いかける間もなく、地面に着地した水滴は膨張を起こした。一気に野球場が10個入るほどの巨大な淡水の湖になった。

もし、筒ごと奪って飲み干していたら、僕は一瞬で散り散りになり、火星全土が大洪水に見舞われただろう。

唖然とした僕が、火星人の姿を探したときには、もう池の奥深くに泳ぎ去っていた。もう二度と出会えないくらい、遠くに消え去ってしまっていた。

水面はとても穏やかで、透明で、空と雲がくっきり映っていた。時々、波紋が現れて、その空が湖面に映し出された像であることを、僕に思い出させた。


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