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パラレルワールド・ボーナス

手渡された給料袋に右手を突っ込んだら、生暖かいものに思いきり触れた。しかもギュッと握り返してくる。もちろん、社長の手ではない。

たしか、今年最後の給料には、顧客獲得の成功報酬が加算されている噂があった。もしかして、顧客と僕は、給料袋のなかで握手してやいないだろうね。

でも、これは手品じゃないんだ。あまりにも気持ち悪くて、手を引っ込めたい気分だった。でも、うんともすんともいわない。「社長っっ!」と助けを求めたけれど、彼は呑気に緑茶を美味しそうに啜っている。

*

これはきっと何かの冗談に違いない。こうしたふざけたことは、社長がいつも仕掛けそうなことだった。以前だって、火星カタツムリを人類最初に社員に味見させたことだってある(「しっとりカステラだよと騙して」)。

「それじゃ、よい年末を!」と意気揚々と社長は出口に向かい出した。まじか。「待ってください!」と声に出してみたが、社長の耳にはヘッドホンが装着されていて声が届かなかった。追い掛けようにも、すでにエレベーターの扉が閉まってしまった。

給料袋に手を突っ込んだままの僕は、「社長の悪戯好きには困ったもんだな」と微笑んだ。その時はまだ、自分で何とか出来るだろうという余裕があった。

*

給料袋のなかの手のようなものは、僕をつかんで離さなかった。なんとなくその手のようなものとの境界線が、僕という感覚から失われている気がした。目を閉じて、右手首を左手でずっと握り続けていると、手の感覚がループして分からなくなるのと、同じ原理だ。

でも、変だった。身体感覚の境界が曖昧になるのは分かるんだけど、僕のこれまでの記憶の境界線もぼやけていく。

どうやら思い出のなかで僕は踊っていた。細かなステップで、時々くるくる回って、たまにジャンプする。手足が足りないなあと思いながら、それでもどこかを補ってくるくる回る。なんて振り付けのダンスなんだろう?記憶がかすかに残っている僕は、これは僕らしくないとはっきり言えた。僕は決して踊ったりしないからだ。

*

ふと気がつくと、社長にそっくりだけれど、どこかが違っている別者が目の前に現れた。「ジャンプはもっと腰をひねって、心から弾けるんだ」とお手本も示してくれる。社長そっくりな男は、とても上手にくるくる回ってみせる。このダンスのために足りない手足が、見える気さえする。

参ったな。社長は特別ボーナスのつもりで、僕を昇格させたつもりなのかもしれない。でも、実際には平行な世界に追いやっただけじゃない!残り僅かの古い僕の記憶は、はっきりと舌打ちした。

僕はダンスが、とても苦手なんだ。

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