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ローラ・カスケイド

人里離れたクレーターの真ん中に、古びれた家屋が一軒だけ建っていた。家の周囲は丸く自生の草が茂って緑で、さらにその周囲は赤く錆びついた荒れ地が取り囲んでいる。クレーターの円い丘陵の頂きから眺めると、色のコントラストが目に焼き付いてしまう。

その家の住人である老婆ローラについての良くない噂は、誰もが知っていた。夫のある身でありながら火星人と密通したこと、その後生まれた子どもの行方がわからなくなっていること、その他諸々。どのゴシップも推測の域を出ないものばかりだった。それにもかかわらず、誰もが噂を信じて疑わなかった。

だから、この一帯の者たちはローラと関わるまいと、避けて過ごした。誰一人として近寄らず、神父すらも老婆ローラの言い分を聞こうとしなかった。

それは当時の「火星の中世」と呼ばれる、非情で悲しい風潮だといえる。理性を失った移住者たちの果てしない妄想が、そこかしこに雑草のように生い茂り、社会を硬化させたようなものだ。最悪の場合、暴徒化してしまうケースすらあった。

幸いローラの場合は、老いるまで静かに過ごして、周囲からの批判の眼差しに冷静に耐え続けた。町に出ることもなく、ほとんどすべてを自給自足で耐え忍んだ。

やがて、老婆ローラが亡くなったという報せは、彼女の死の一か月後に町に届いた。その日はとても晴れた暑い日だった。誰が看取ったわけでもなく、彼女の訃報だけが伝わってきた。誰が彼女の死を最初に伝えたのか、誰が彼女を埋葬したのか、知る者はなかった。

近隣の住民は、もう誰も老婆ローラの顔を覚えていなかった。彼らは気に入らない存在を消し忘れたいと願っていたので、その死についてさえも目をそらした。だから、クレーターの真ん中に住んでいた老婆が実在していたのかどうかすらも、彼らの中では曖昧な状態になっていた。

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ある日、新しい周波数を使ったラジオ局が、開局のセレモニーとしてピアノのライブ演奏を放送した。演奏するのはカスケイドというあまり知られていない女性の音楽家だった。彼女の弾くユニークな音楽と演奏は、聴く者すべての心を惹きつけた。

彼女の作曲した緩く流れる旋律は、過去と未来をクロスさせた映像を、耳から視覚的に感じさせた。火星電波の悪さからくるキュルキュルという雑音は、音楽で消し去るほどの強い印象をもっていた。新進気鋭のピアニスト兼作曲家カスケイドのことを、市民の誰もが知りたがった。

一躍、カスケイドがトレンドワードあがると、ひとつの奇妙な符合が噂されるようになった。カスケイドは名をローラといい、フルネームはローラ・カスケイド。この名は例の老婆ローラと同じ名前だった。さらに、ライブ放送の最後にピアニストが添えた、一言のメッセージに奇妙な点があった。

「わたしはローラ・カスケイド、西暦2190年生まれ。昨日、20歳の誕生日を迎えたばかりです。」

今は西暦2270年であって、もし彼女の言う通りの出生年であれば、80歳になる。だが、声音はとても若々しく、どう間違っても老人の声ではなかった。

緊張のあまり言い間違えたのではないか?しかし、噂好きの市民たちはすぐに老婆ローラのことではないかと詮索が飛び交った。

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半月に一回の割合で、ローラ・カスケイドのオリジナル曲が演奏され放送された。放送は午前中のみで、たいていは一昔前の音楽や話題が流れていた。

懸念されたローラ・カスケイドと老婆ローラとの奇妙な符合はすぐに忘れ去られた。そして、ファンは確実に増えていった。彼女がどのコミューンに暮らしているのか、顔写真が公開されていないのか、リサイタルの予定について、などローラ・カスケイドの素顔を人々は知りたがるようになっていった。

だが、ローラ・カスケイドの情報は、どんなに調べても一切アクセスできなかった。プライバシー管理が徹底されていれば、確かにそれはあり得ることだった。彼女はどこまでも放送の電波の中の女性で、生身を晒さない音楽家だった。そうしたアーティストは、これまでにもいたのだから。

ローカル放送局がどこで誰が発信しているのかも判明せず、カスケイドを巡る真偽の確認はできなかった。

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翌年、ローラ・カスケイドの音楽は、遠く離れた地球のアカデミー賞を受賞したという。この件について、ラジオ放送が報じた。彼女の謙虚な受賞コメントも流れた。誰もが音楽に共感していたし、評価されるのも当然だと喜んだ。

だが、地球側のアカデミー賞受賞歴を調べると、誰もが目を疑った。ローラ・カスケイドはすでに故人と表示され、没年が老婆ローラと一致していた。町中は不安の暗鬱な空気に包まれた。

ラジオ放送はローラ・カスケイドの新作を相変わらず流し続けた。

もし、音楽家ローラが老婆ローラと同一人物だとしたら、この放送はどのような内容になっていくのか?リスナーたちの不安は膨らむばかりだった。

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釈然としない情報と推測にしびれを切らした有志の市民数名が、かつて老婆ローラの住んでいたクレーターに足を踏み入れた。目的地に彼らが近づくと、家があるクレーターの中央に煙が上がっているのに気づいた。さらに近づくと、緑色の自生の草地に一台のアップライトピアノが燃え盛っているのが見えた。

燃えても燃えてもピアノは燃え尽きなかった。市民たちはただ臆病なだけで、小さな炎でさえ呆然と離れて見ることしかできなかった。

それがたとえ超自然的で非科学的なローラ・カスケイドの怒りだとしても、市民たちは素直に信じただろう。彼らが笑った火星人の仕業だとしても、見えない異星人の存在を認めただろう。

だいたいにおいて、この世界は、そのようにできている。実際、彼らはあと半世紀のあいだ、過去の半世紀にした噂をラジオで聞くことになるのだ。

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