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火星にアンパンマンは似合わない

朝、焼きたてのフレンチトーストを食べようとすると、電話がかかってきた。通知画面に、カバオ君の名前が表示されていた。

「はい。」と少しだけためらってから、電話に出た。

「今からウサコさん家に遊びに行っていい?」

「だめ。」私はだめな時は、はっきりこう言う。

カバオ君は同じマンションに暮らす大学生だ。本名は何度か聞いたけれど、すぐに忘れてしまう。「カバオ」というのはハンドルネームで、本人いわく『アンパンマン』由来だった。名前と見た目が笑うほど一致していたから、そちらの記憶を私は優先させてしまうのだ。

おまけに、食い意地が張っているところや、焦っては事件を引き起こしてしまうところも、カバオ君のキャラクターにそっくりだ。本当にドジ。

そのくせ妙に勘が鋭くて、美味しいものを独りで楽しもうとすると、うまいタイミングで玄関の呼び鈴を鳴らされる。だから、今日みたいに予め電話確認してくることは、すごく珍しい。

*

「どうしたの?彼氏でもできたの?」とカバオ君の声は神妙そうなふりをしている。けれど、カバオ君が実はその場を茶化していることを、私は知っている。彼は茶化していることを察せられないようにしながら、私を励まそうとする変なところがある。

「ばか。」と私はボソッと呟いた。

今日の私は、朝からまだ「はい。」「だめ。」「ばか。」の三語しか言っていない。私のほうが、とても愚かで残念に思えてきた。

ちなみに、私はカバオ君にだけ、ウサコさんと呼ばれている。これは私のハンドルネームでもなんでもなく、二人で会うようになってからカバオ君が勝手に命名してきたものだ。呼び合う名前で人間関係のバランスをとるんだ、と言っていたけれど、それはそれでアバウトなカバオ君らしいな。

*

最近まで、私は図書館で司書として働いていた。二か月前、蔵書が少なすぎて人員整理の嵐が吹き、とうとう肩を叩かれた。火星の地方図書館の惨状は語り尽くせなかった。

早く食いぶちを探さなきゃ。

しばらくマンションのワンルームと職業安定所を行き来しているうちに、駐輪場で暇そうにバイクにまたがるカバオ君と初めて会った。アイスキャンデーを舐めながらバイクにまたがる人を、私は生まれて初めて見た。呆れてしまって、私は挨拶する前に笑ってしまった。カバオ君もつられて笑っていた。

暑くて待てなかったんだ、と美味しそうに平らげる彼は、見るからに幸せそうだった。こんなに喜ばれたら、アイスキャンデーも成仏できるだろう、と思ったくらい、私はカバオ君を見ていて気持ちよかった。

それ以来だった。

自分の顔を食べさせたり、パンチを食らわせるようなアンパンマンは、火星では似合わない、と思うようになった。もし登場させるとしたら、きっとカバオ君のような男の子だ。あの日以来、そんなふうに私はずっと思い続けていた。でも、絶対にそんなことをカバオ君本人に言わないけど。

そんなつもり、ないから。

*

でも、言うかもしれない。切らないでいた電話が、私をカバオ・ワールドに引き込んでいく。

「昨日、アイスクリームをたくさん買って来たんだ。バニラが濃厚な、とってもクリーミーなアイスなんだ。すごく安かったよ、ウサコさん。」

カバオ君は囁くように言ってきた。まるで、詐欺師に耳打ちされているみたいだ。

「え?」

「今からアイス持って、ウサコさん家に遊びに行っていい?」

完敗だった。「いいよ、おいで。」

さすがは勘の鋭いカバオ君だ。ここまでくると、予知の領域だろう。これから食べようとするものに、最適なトッピング食材を当ててきた。一人でたっぷり二人分のフレンチトーストを食べようとしていた私は、山盛りだったものを二皿に均等に分けることにした。

私はカバオ君より少しだけ年上だけど、かといって何が優れているわけでもない。彼がどれだけグウタラかも知っているし、砂漠緑化関連の仕事が内定していることも知っている。とても要領がよくて、流れる音楽みたいな男の子だった。いつの間にか流れているけれど、いつまでだって聴いていられる、それがカバオ君だ。

私はフレンチトーストだけで一皿の生涯を終えることを、今すぐにでもやめたいなとすごく思った。

それにしても遅いな、カバオ君。

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