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火星でないという嘘

ずっと不思議に思ってきたことがある。僕はこの星で生まれてこの星で育ってきた。父も母も、ここを地球だと僕に教え続けた。火星という辺境の土地で。

どうして、両親は僕に嘘をついたのだろう?その理由を本人たちに訊くことは、もうできない。

小さい頃に頻発した、開拓地の落盤事故に、父も母も巻き込まれた。百人近くの行方不明者の捜索は、数日で打ち切られた。地下深層のメタンガスがまたいつ爆発するかわからない状態だった。

「切り拓くということは、希望だよ」と生前の父は口癖のように言っていた。「希望でしかないということは、とても残酷なことなんだ」

僕はその言葉をなぜかよく覚えている。希望と残酷が背中合わせに座っている姿は、どんなおとぎ話よりも鮮明に僕の心に映った。

記憶の中の両親は、火星に疲れ切っていた。

*

僕は小学校にあがってから、初めてこの星を火星だと知った。その時にはもう両親はいなくて、嘘だったことに相当戸惑った。

今いる場所が火星であると知ったとしても、地球であるということと、違いはわからない。惑星間をロケットで移動したのなら、体験として感じ取っているものの、僕らにはそれがない。

この嘘が僕だけだったなら、特殊な家庭のささやかな問題で片づくだろう。でも、次第に事が大きなことに気づいた。半数以上の同級生が、ここを地球だと教えられ、火星だとは知らなかった。

ここが地球だという嘘について、友人の両親はこう答えたそうだ。「もう、そういう年頃になったんだね。君は本当は火星に住んでいる。パパとママは、ずっと昔、ここ火星に移り住んできたんだよ」

彼の両親も、心身ともに疲れ切っていた。ケガも絶えない様子だった。

*

地球のゴールドラッシュの昔話を知ったのは、思春期の頃、図書室で映像アーカイブで見た時だ。その既視感は強烈で忘れられない。ここと同じような環境で、同じような勢いの表情の市民たちが、そっくりな賑わいを見せている。

そして、金の掘り尽くされた町には、誰も寄りつかない。寂れた町が砂に覆われていく。

これが身近で繰り返されるのかと、僕は次第に悲しくなった。

やがて、社会人になり結婚もした。僕たちは父親になり母親になった。幸い開拓期は落ち着いた時代に入り、社会構造の発展のほうにシフトしていった。人手を要した荒々しい掘削は、人権意識と最新テクノロジーの導入によって改善された。

ゴールドラッシュ的な時代が終わりを迎え、人々の表情に野心的な険しさが失われた。そんな今となっても、変わらないことがある。

どの家庭の子どもたちも、ここは地球だと教えるのだ。過酷で悲惨な時代が過ぎたとしても、苦しい記憶はすぐには払拭されたりしない。地球というシステムは理想であり、あらゆる原型だった。だから、地球という夢を見せてあげたい、少なくとも幼い時だけは。

物心ついて社会で考えるようになる頃、彼らもまた辛い真実を知るだろう。

それはそれでいいのだと思う。リアルでない時代で生きて、守られるものがある。人生がすべてがリアルで埋め尽くされなくても、いいなと思う。

そのうち火星そのものが夢と希望になるのを、ゆっくり待てばいいのだ。

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