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Boys, be ambitious!

ひとりのこどもが生まれた。まだ静かで、コロニーの建造も途上だった惑星で、最初の産科病院もなく、急ごしらえの隙間風だらけの小屋で生まれた。火星で最初に生まれた彼女は、エマと名づけられた。

生まれてすぐ、周辺の荒れ地に鬼火が現れた。磁気嵐が引き起こした発火現象だと科学者たちは説明した。もちろん、科学者たちは太陽フレアのデータを把握していて、磁気嵐の発生していない安定した日だったことを承知の上で、堂々と嘘をついた。

嘘で誤魔化さなければならないほど、彼らはうろたえていた。知らないでいたほうが良いことを、彼らは新天地で知ってしまったのだ。

*

少女エマが十歳の誕生日を迎える頃には、数ヵ国語以上の言語をマスターしていた。誰が彼女に教育したわけでもなく、知る機会すらなかったにもかかわらずである。「どこで覚えたの?」と尋ねても、彼女は首を横に振るだけだった。

火星で生まれた二人目のこどもも、言語に関して特異な能力を示した。三人目以降もみな同じだった。

どうやら不思議なことが起こっている、と大人たちが気づいても、それを訝しく思うことはなかった。こういうものだと誰もが受け入れた。

ただ、地球の人たちはとても頑なだった。厳しく冷たい眼差しで、火星のこどもたちを異端視した。新しい世界の雰囲気に流されたくない、という地球の親たちの要求は日に日にエスカレートした。火星というキーワードがメディアで流れることすらも、クレームが出る始末だった。

やがて、火星では一人もこどもが生まれていない、と地球の人たちは思い込むようになった。火星の親戚が出産したと聞いても、けっして関わらないように目を逸らした。そうすることが処世術だとお互い自慢することが、彼らのステイタスだった。

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エマが二十歳になった頃、火星生まれの人口は総人口の半分を上回るようになった。

エマの頭のなかの数ヵ国語以上の言語は、滑らかに溶け合って、独自の文法を構築していた。どうしてそんなことが可能なのか、エマにもわからない。そして火星中のこどもたち全体にも、その新しい文法は共通していた。こどもたち同士が話す独特な言語は、やがて火星スラングとして定着した。

火星の大人たちはそういうものだと不思議に思わなかった。

この風潮が火星社会で忌避されずに済んだ理由は、オリジナル言語を捨てていないことも大きかった。火星スラングはあくまで遊びの一環であり、彼らは通常社会では親と同じ言語を使った。

火星スラングが一般社会の公用語として現れるのは、ずっと後のこと、地球に大きな戦争が二回繰り返されて、さらに星間物質に起因する未曽有の大洪水に見舞われたあとの時代のことである。

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三十歳になったエマは、すでに母親となっていた。火星二世代目として誕生したのは、双子の兄妹だった。

エマはこれから起こることを知っていた。起きることへの逆らう困難と徒労も十分経験してきた。四十歳になれば予知能力が消えてしまうことも知っていた。

最期の時には、いつかの鬼火が戻ってくる。あれは仲間の魂で、どんな時でもモノに潜んで火星のこどもたちを見守っている。もし、予期しない戦争が起きたりしたら、鬼火はその真の姿を現してありのままの未来を見せようとするだろう。そして偽の未来を見ようとしたことを後悔させるだろう。

まだ三歳の兄妹はすでに火星スラングで静かに語り合っていた。エマの頃から比べると、火星スラングの習得が一段と早くなっていた。

そういうものだろう、とエマたちも祖父母たちも思った。新しい環境はわたしたちを変えてゆく。

それは辛いことではない。どんなに身体や社会が変わっていこうとも、どんなに相変わらず地球の人たちが目を合わそうとしなくても、わたしたちはここで生きている。

四十歳になったら、エマには始めたい事業があった。予知できなくなってから新たな冒険をすることに対して、彼女は胸躍る気分でいっぱいだった。

ボーイズ・ビー・アンビシャス。彼女はとても懐かしい言葉を思い出した。未来とまっすぐ目を合わせて生きていきたい。

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