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火星映画史(黎明期)

火星に居ると様々なことが惰性に変容する。それを怖れた火星の統括本部は、映画に力を入れ始めた。火星を舞台とした近未来社会を現前させ、夢をつなぎとめることに価値を見出そうとした。

その第1作目「火星でのマーズ・アタック」は、体制の期待とは反対に商業的に大きくコケた。かつての火星人襲撃の第2次大戦を火星で繰り広げるという、なんとも形容しがたい設定だった。CGを駆使した火星人たちは20世紀の遺物そのものだったし、火星人たちのセリフすべてにセンスがなかった。早い話、火星人を下品な下等生物として描いたため、観客の総ブーイングを受けた。

そもそも火星における映画セットが未熟だったこともあり、スタジオ機材も大学生がアルバイトの小遣い程度の予算で揃えられるレベルだったことは、致命的だった。巨額の浮いた予算がどこに消えたのか、誰の記憶にも残ることはなかった。俳優も声優も、音響スタッフもカメラマンも、監督すらも素人だった。

ちなみに、第1作目の売り文句は「映画に批判的な人も、これを見始めたらみんな夢中になります」という舐め切ったものだった。

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その後、猛省した22世紀火星フォックス社は、第2作目で念入りに準備を重ねた。地球の旧ハリウッドから現役の俳優陣を引き抜き、また詩的な才能を兼ね備えた未知の監督をどこかから見つけてきた。監督の名は、本名を伏せて、たった一文字Kで通した。Kはマスコミへの顔出しを徹底的に嫌い、現場でのみ知られる人物として異色だった。

そして3年を費やして撮影された「風穴からのタイムスケール」は、地球でも噂になるほど注目されることとなった。

本作では当初の火星プロパガンダ的な目的から大きく外れ、旅人たちの静かな心象風景を中心に描いている。火星と地球を行き来する未来での裏寂れた希望と失望とが展開された、全編モノクローム映画だった。最低限のセリフ、少なめの効果音で、自然音や呼吸音が特色だった。砂と植物の描写が美しく、地球ではアカデミー賞を総舐めにした。

ただ、火星の映画界では体制の目が厳しく光り、公開されて僅か一か月で上映打ち切りになった。マスコミでの宣伝も制限を受けた。火星映画は力強く華やかでなければならないのに、Kはその約束事をすっぽかしたため、体制から総スカンを食らった結果がこれだった。

皮肉なことに、この打ち切り処分こそが、Kの存在を知らしめるきっかけになっていた。もし「風穴からの」が予定どおりの一年という期間で公開されていたとしたら、Kはすぐに飽きられて空席必死だったろう。関心も薄れていったに違いない。

つまり、体制側の対応は、真逆の結果を引き起こしてしまった。

それでも体制側は、「風穴からの」の打ち切りを否定的にとらえる市民たちを「反火星的」と見下げるキャンペーンを繰り広げた。

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次作「未来世紀火星」が公開されたのは、かなり唐突なタイミングだった。この映画の制作予告は一切なされなかった。その理由は、前作での不当な扱いによるKの体制への不信があったことは、もはや疑うまでもなかった。

さらに世間を驚かせたのは、公開された時期が、前作から半年しか経過していないという、異例の早さだった。

当初は駄作だという噂が、どこからともなくネット上の広告で繰り返し掲示された。ところが、上映を見た者たちは口をそろえて、これはヤバいものを観たと感想を述べた。映画好きにとっての「ヤバいもの」とは、とんでもなくぶっ飛んだ映画だということを意味していた。

今回の映像は、一転してすべてカラーだった。色彩へのこだわりは強く、過去と未来が錯綜する都市の描写に人々は魅了された。ストーリーの複雑さは解釈を分岐させ、観る者によって微妙に異なった。その違いは各個人の記憶にコミットすることで生じるものだった。さらに音響効果に力を入れたことで、空間的な可能性に広がりを与えていた。Kの評価は一気に爆発していき、もはや体制側も見て見ぬふりをするわけにいかなくなった。

そして第4作目の予告が発表された夜、Kは突然姿をくらました。第4作は「失われた火星の希望をどう取り戻すか」をモチーフにしており、そのことが体制の怒りを買ったのではないかと噂された。のちに歴史研究家により否定されたが、一時期は暗殺説も流れた。

そもそもKの顔を知る者は一部の映画関係者だけであり、誰がKなのかを知ることは絶望的だった。撮影時も素顔を晒すことはなく、その存在は謎に包まれていた。監督不在のため、第4作目は告知だけですぐに打ち切りとなった。

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新作に対する空想だけが、火星の人々の心に静かに発芽していった。

多くの人の心に、それぞれ違った形で世界は分岐していくだろう。

それがKの本当の狙いだった。

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