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コインランドリーの魔物

コインランドリーで見つけた忘れ物、その古びた火星の詩集に、僕は見覚えがあった。

僕が少年だった頃、夢中になったことのある、火星冥界を巡礼する物語だった。内容については、最初の出だし以外の、ほとんどのあらすじを僕は忘れていた。だから、なおのこと、その忘れ物の存在が気になった。持ち主のことより、書物の中身のほうが気になった。

今、洗濯槽は僕以外にもう一台がグアングアンと稼働していた。洗い終わるまで、どこかに出掛けていったのだろう。その人が持ち主である可能性が高かった。

思い出すことのできる物語の冒頭一節は、火星の裏寂れた街角のコインランドリーが舞台だった。主人公が財布を忘れるシーンで始まる。財布にはほとんど所持金もなかったけれど、それでも雨の降るコインランドリーに戻ってゆく憐れな中年男性。とても冷たい空気に満ちた一節だった。

コインランドリーには物語る影がいて、主人公は喜んで影の中に吸収されていくのだ。影は悲しそうに「数億個の太陽の哀歌」を口ずさむ。そうして主人公が負の世界をたどり、正の世界への道筋をめぐる詩編が続く。壮大な旅物語だった。

そういえば、さっきから雨は降り出していて、隙間から吹き込む夜気は湿気を含んでいた。肌を刺す冷たさは、雨の音で倍増される。さらにコインランドリーの立てる虚しい音が、蛍光灯に照らされた部屋を夜の中に孤立させる。

もし、この世界で許されるのであれば、と僕は真っ黒い外を眺めて思う。僕は僕でない誰かに世界一幸せになって欲しいと願った。この冷たい湖の底のような場所から、静かに浮き上がる道案内として役に立ちたかった。あまりにもこのコインランドリーは世界から孤立していた。

それは希望という、この星に来てから、ずっと忘れていた想いだった。あって当然と決め込んでいたもの。なくしても、なんとも思わなかったもの。思い出すと、とても懐かしいものだった。

僕は詩集の持ち主が戻ってくるのを心待ちにした。僕自身は火星人の影だと信じきってさえいた。


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