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到着後の記憶喪失者たち

最近、俺は地球での職能的な記憶を、断片的に思い出すことがあった。目が覚める時、一瞬だけあり得ない音が聞こえるようになっているのは、その兆候だった。クシャミ、音楽、物音、声、ありとあらゆる種類の音が、そのつど現れては俺を戸惑わせる。

断片的な一瞬の音は、その一日を知らない俺と対峙させる。時には戸惑い過ぎて、頭の混乱を落ち着けさせるために、強いアルコールに逃げたりする。そんな俺が選ぶ酒は、なぜか知らない名前の奴だ。おそらく昔の俺が好んでいた銘柄なのだろう。

昨晩、手紙を書きながら寝落ちした。未明に目覚めた時には、何をしたためようとしていたのかすっかり忘れた。仕方なく一行しか書いていない便箋は仕舞い込んで、今度は出版社に持ち込むエッセイを二編書き上げた。壁の向こうに読者が隠れていると意識して書くと、執筆は気持ちよく進む。とても気持ちがいい。

その効用だろうか、今朝は雑音のない静かな目覚めだった。地球の頃の記憶なんて、俺には用がない。生きるためにどんなに苦労を重ねたものとはいえ、今さらどのような意味があるというのだろう?

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火星到着時に記憶の一部が喪失してしまう症状は、すでに社会問題化している。失われる記憶は、決まってそれまでのキャリアとそれに付随する知識や経験だった。特定の業種に貢献しようと準備万端で火星まで渡ってきても、着いた途端に肝心の目的を見失なう事例ばかりだった。

この俺も例外ではなかった。地球から渡ってきたのは三年前だった。火星基地に到着直後、気がついた時には大部分の記憶が失われてしまい、激しいパニック状態に陥った。俺の場合は、ほかの症例よりもかなり重篤だった。あとで分かったことでは、もともと仕事人間で趣味さえ仕事寄りに生きてきたことが、俺のような最悪の事態を招いたらしい。仕事関連から差し引かれた記憶量が著しく少なくなると、残り容量だけで生きることは非常に厳しいのだ。

虚ろな我が身を持て余しつつ、俺はリハビリ病床で一ヵ月ほど過ごした。

4人相部屋にいたのは、同様の記憶障害を発した重症患者ばかりだった。発症の原因が特定されていないため、どの患者も対処療法でしかない。この件はいまだに未解決問題で、現在渡航に制限がかかっている。

退院前に医師に呼び出された。部分的記憶喪失の状態は今後も良くならないこと、これまでの職能的経験は考えずに新たな道を切り開くべきこと、そして再就職に向けてのサポート体制についての説明があった。

俺は過去の俺が素晴らしかったかどうかなんて、今は気にしない。地球にいた頃の自分だったら、間違いなく絶望しただろう。意外なことに、この症状で絶望してしまう患者は、ほぼゼロだとされる。異状なく入植した人たちにそのことを話すと、すごくびっくりされてしまう。得た経験はかけがえのないものだ、といつも力説されてしまう。

失った過去を悔やむより、新しい環境でスタート地点い立っている今を、俺はとても好きだった。すごく不思議なんだけれど。

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俺の本来の仕事は高校教員だったらしい。教えていた教科も、生徒のことも、教壇から見る風景も、一切何も覚えていない。教員採用試験問題なんて、改めて解こうとしても一問も解くことができない。

そんな状態だから、週に一度のカウンセリングを重ねた。その上で公的サポートを受け、俺に適正だとみなされたフリーライターの仕事をはじめた。時間が不規則で生活管理が難しいのが難だったが、馴れると自分を律することが楽しくなった。

病室で相部屋だった一人は、その後、ウサギ料理専門店を経営しはじめたという。もともとはプログラマーだったらしい。

ほかにも同室の数学者だったという青年は、デリバリーピザ店のオーナーを始め、また、弁護士だった中年男性は、水泳のインストラクターを始めていた。こうした情報は共有スペースで情報を交換して、お互いの進捗を知ることでモチベーションを上げていた。

生活手段の記憶の傷ついた人たちは、そうやって再び生きることを見出していった。

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先日、ふと、ウサギ料理専門店に取材に行くことを思い立った。俺は酔いが完全に抜けていることを確認した上で、彼の名刺の電話番号を押してみた。

「久しぶりだね。ウサギ料理のいい店を開いたって噂を聞いたよ」

「よく知ってるね。あれから結婚もして、順調に開店したんだ。だけど、集客がすごく大変なんだ」

「よかったら取材させてくれないか?君の店の宣伝にもなるだろう。雑誌『火星の食卓』にカラー刷りで3ページ分のインタビューと店舗紹介を掲載したいんだ。今流行りのモデルさんにも参加してもらう予定なんだ」

「そうか、君はライターの仕事を見つけたんだ。おめでとう。よかったよ。店を記事化する話は、願ったり叶ったりだから、ぜひお願いしたい」

順調だった。俺たちは取材日程のことや、訪問するスタッフ人数、モデル名、メニューのことなどを話し合った。そして「じゃあ」と電話を切った。

モデルには、火星ではワビサビのカリスマと定評の夫婦が、雑誌社から候補としてすでに知らされていた。きっと彼も喜んでくれるだろう。

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クシャミの幻聴で目が覚めた。うっかり午睡していた。クシャミが過去の職能の何に根差した記憶なのかは分からない。目の前には、さっきの電話のメモ書きが散らばっていた。

メモ書きのあちこちに、赤いペンで丸やバツが書き込まれていた。「もっと具体的に!」や「引用箇所を明確にしないと盗用となるので要注意!」という赤い書き込みもあった。俺には書き込んだという記憶がさっぱりない。

だが、字体は間違いなく俺のものだった。

隠れていた記憶が寝ている最中に動き出すことについて、俺は医師から聞いていない。そういった噂も聞かない。

今度、ウサギ料理専門店の店長にも、似たようなことが起きていないか、確認しておこう。

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