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釣竿為八郎の失踪

「海では逃げた魚を追うな」とあれほど為五郎じいちゃんに警告されていたのに、僕はどうしても仕留めたくて追ってしまった。素潜りでの漁なので、時々息継ぎを繰り返しながら、美しい背びれをもつ魚を追った。

魚は岩陰を使って、巧みに僕の追跡をかわした。そんなことで負けるもんかと僕は余計にムキになった。

極彩色の長い背びれは、これまで一度も捕まえたことのない魚だった。あんな鮮やかな魚を、これまで見たことがなかった。

背びれが長いおかげで、物陰に隠れきれず、完全に見失うことはなかった。でも、どんなに追っても、魚に触れることすらできなかった。まるで、僕が魚にもて遊ばれているような気さえした。

*

先々週、夏休みはあっけなく終わった。

為五郎じいちゃんの家で過ごした一ヵ月は、あっという間だった。進路で悩んでいたことは、爺ちゃんのアドバイスで少し整理がついた。今は、魚のことだけを考えて、漁業ネットワークのプログラミングの構想を練っている。週末になれば、潜りに行ったり釣りに専念する。

残暑の中を、僕はこうして単調に過ぎていくと思い込んでいた。

*

息継ぎのタイミングで海上の景色を見回すと、いつの間にか見たこともない洞窟状の岩場に迷い込んでいた。人類が火星入植後、海洋化してまだ百年と経っていないのにもかかわらず、その岩場の雰囲気は相当年季が入っていた。数億年昔に干からびた姿をとどめた太古の岩場が、再び潮で満たされた場所かもしれない。

僕はこの種の岩場について、不穏な噂を耳にしたことがあった。誰からその噂を聞いたんだっけ?すぐに思い出せなかった。

その話によれば、旧海岸にはいくつもの古い岩場があるという。岩場が数億年の時を経て息を吹き返し、大量の胞子が休眠から目覚めるらしい。やがて、胞子はシダによく似た植物として生い茂る。

岩場は緑で人間を含む動物にとって有毒だけれども、当時共生していた生物にとっては薬草の効能があるらしい。その結果、岩場にはさまよえる火星人が住み着いて、シダは旅に傷ついた彼らの体を癒す。そして彼らは魚を使って人間を罠にかける、というのが流布されている通説だった。

火星人は足の速い魚と意識をシンクロして、欲の深い人間をおびき寄せる。「だから、逃げた魚を、おいそれと追うんじゃないぞ。わかったか、為八郎」。あっ。

そうだ、この話をしていたのは、為五郎じいちゃんだった。しまった。いずれにしろ、気味の悪い場所に長居は無用だ。僕は引き返そうとした。

*

僕の記憶はここから半年間、まったくない。気づいた時には、見たこともない海辺の町のかき氷店で、「まいどありい」と威勢のよい声で働いていた。胸のところに「メタ八郎」という名札をつけていた。僕はいったい誰?

困った僕は、腕っぷしの太い、元船乗りを思わせる店長を見つけて、ここに来るまでの経緯を話した。もちろん、店長は笑って本気にしなかった。それに、僕にはいつの間にか素敵なガールフレンドがいて、すでに同棲してるということだった。

店長から連絡を受けてすぐに駆けつけてきたガールフレンドは、僕を必死にハグして、病院に行こうか?と聞いてきた。病院よりも警察のほうが、と僕は思った。けれども、僕は彼女のことがずっと前から好きだったような気がした。だから、このままでもいいやと思いはじめた。だから、病院にも警察にも行かなかった。

その日は休みをもらって、帰ることにした。帰りがけに、屈強そうな店長は僕を思いっきりハグして、「待ってるぞ」と言ってくれた。どうやら、日常的にハグをするお国柄らしい。店長が汗だくだったことだけは、閉口したけれど。

家に帰って、ガールフレンドが安心して仕事に戻ると、僕はしばらく一人きりになった。波の音しかしない部屋で、開放した窓から海を久しぶりに眺めた。端末で経緯度情報を調べると、ここは亜熱帯の来たこともないコミューンだった。

僕はいろいろ考えた。記憶にはないけれど、きっと火星人に連れ去られて、何らかの理由でこの地にたどり着いたのだろう。どういった事情があったのかはわからない。漁業でないのは、素性がすぐにバレないためかもしれない。

でも、ここで生活の基盤を築いていくのも、悪くない気がしていた。かき氷が本業なのか、ただのパートなのかもはっきりしていないが、休みになれば魚を釣って、海にも潜り、漁業ネットワーク構築にも精を出すことだってできる。新しい家族もできそうだった。可能性がここにはあった。

家族と為八郎じいちゃんたちが心配しているだろうから、メールで事情だけは整理して伝えておこう。それからの未来は、それから駒を進めてみよう。

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