見出し画像

孤高な切花

雷雨の夜こそ読まねばと、上田三四二の『花衣』を本の山から引き摺り出す。

『花衣』は、「茜」「日溜」「岬」「花衣」「敗荷」「橋姫」「月しろ」「影向」の8篇を収めた連作短篇集である。

ざっくり全体の内容を説明しようとするが、講談社の作品紹介文があまりにも的確で、稚拙な文しか繰り出せない私には恐れ多いため、引用する。

死の影の一閃で華やぎの極地で頽(くずお)れる恋。潮が差せば海に没する砂嘴の如き夢幻の恋。歌人にして作家の著者が磨き抜かれた言葉の粋で極限のエロスを描く連作集。

この本との出会いは鮮明である。高校の図書館でやっていた小さな古本市で3冊200円で買ったものの1冊である。裏表紙の文句に惹かれ、この1冊を買うために他の2冊を選んだようなものだった。

当時は谷崎潤一郎に感銘を受けてまもない頃であろうか。単純に言えば、文学かつ詩的で巧みな言葉遊びから編み出される耽美小説に心を奪われていた時期である。

目を引く表現を紹介しよう。

泉は藤子の手を執った。四つの瞳(め)が見つめ合った。

「茜」

泉は小さな叫び声が、彼の居る空間のどこかで、ときどき、夜の海にたつ白波の秀(ほ)のように閃くのを感じた。

「茜」

彼女は男の強い髭の伸びた頬に両手をそえて、出来るだけ軽薄に、こう訊いた。
「薔薇じゃなくて、あたしじゃ、お厭?」

「日溜」

そのとおり、娘は人間ではなく、花の精だった。花の精──樹上の桜の花が峻勁な鳥を宥すように、地上の花の精は精悍な獣を宥して、風も虫も鳥も獣も、そして人間も、花によって嘉納されていた。

「花衣」

こんな文句が至る所に散りばめられているのである。毎頁お手上げ白旗状態だ。ここまで惹かれる理由だが、優位感覚の一致が挙げられるのではないだろうか。私の感性は身体感覚、視覚、聴覚の順に優位になっている。上田の表現は圧倒的に視覚優位なのだが、その視覚から生み出される触覚の共有が読者にまでいとも簡単に届くのだ。文字を辿るだけで生々しさを感じるとは、VRの先駆けと言っても過言ではない。

ここまで語ってきたが、私は恋愛に性愛を求めていない。社会的欲求の埋め合わせの恋愛がしたいのではなく、自己実現欲求でお互いにいきる恋愛を望んでいるからだろうか。自分自身に重きを置いて成長を目指して努力をするということ、一緒にいる気がするというのは精神的な繋がりを表す、そんな関係を求める現実主義的な思考からだろうか。

確かにそれもあるだろうが、女らしさがないというところもある。谷崎や上田の描く女性はあまりに魅力的で罪深い。欠落していて弱々しさがある。艶かしさ、肌をなぞる、湿気のこもった生温かさが纏っている。粋な会話も自然と生まれている。絶賛ダイアナコンプレックス真っ只中です、みたいな自分とは随分とかけ離れている。私が与えられるのは安心感だけだろうな。もっと歳を重ねれば魅力的な女になれるのだろうか。いやはや、シングルマザーで昔も今も数々の上品な方々と関係を保っている、強く美しい祖母にご教授願おうか。

という私的謎理論もあって、半ば一生独身女の道に進むのではないかという気さえしているし、それなりの覚悟もしてしまっている。このまま行けば30代で過労死かセルフネグレクト孤独死一直線だなと直感が言っているから、相当な危機感を持っている。「このまま行けば」だから、誰かとシェアハウスすればいいのか。30代で死にゆくには余りにも勿体ないから、何かしなければならない。女らしさは何処へ。

そう思いながら、雷雨の中で頁を1枚、また1枚と捲る。無論、上田の世界に惹き込まれて周りの音など聞こえていないのだが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?